名門の権威を利用した「御所体制」、信長との友好関係
もっとも元親は、土佐統一後、すぐに自らを国主とは名乗りませんでした。名門である土佐一条家の権威を利用するため、一条内政を「御所様」として奉じ、自身はその補佐役という形を取ったのです。これがいわゆる「御所体制」です。
そのため京都の織田信長から見れば、元親はあくまで土佐一条家の家臣だと思われていました。
土佐統一を果たした1575年、元親は明智光秀を通じて信長に鷹や砂糖を贈っています。また信長も元親の子に「信」の字を与えており、両者は友好的な関係にありました。
さらに信長から「四国切り取り次第」という支配権を認められた元親は、勢力を土佐から四国全域へと広げていきます。讃岐では香川氏との縁組を進めるなど、戦だけでなく外交も駆使して地盤を拡大していきました。
しかし天正9年(1581)、信長の四国への方針が突然大きく変わります。阿波と讃岐の支配は長宗我部氏ではなく、三好康長を中心に進めるという意向が示されたのです。
これは元親にとって、苦労して築いた勢力圏を失いかねない重大問題でした。当然ながら反発し、織田政権との関係は悪化していきます。
元親の抵抗に対し、信長は翌年、三男の織田信孝を総大将とする大規模な四国遠征軍を計画しました。しかしその出陣直前の天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が発生したのです。信長の死によって遠征計画は中止となり、元親は最大の危機を免れたのでした。
四国統一目前の元親
幼少期には「姫若子」と呼ばれ、武将として期待されていなかった長宗我部元親。しかし初陣以降は驚異的な変貌を見せ、軍事と外交の両面で才能を発揮し、ついには土佐統一を実現し、四国をほぼ手中に収めるまでに成長しました。
その前に立ちはだかったのが、天下人・織田信長でした。本能寺の変によって信長が亡くなり、なんとか危機を脱した元親でしたが、その後にはさらに大きな試練が待ち受けることになります。
「豊臣兄弟!」第25話より、織田信長 (C)NHK
安藤守就(演:田中哲司)(C)NHK
次ページの動画ではこの他、司馬遼太郎『竜馬が行く』にも出てくる土佐の制度「一領具足」について話しています。







