NISSANPhoto by Kevin Carter/Getty Images

1990年代後半、約2.5兆円の有利子負債を抱え、文字通り瀕死の状態にあった日産自動車。その窮地を救ったのが、カルロス・ゴーン氏による伝説の再建計画「日産リバイバル・プラン」だった。1年前倒しという驚異的な速さで、目標をすべて達成。数あるリストラ計画の中で、劇的なV字回復をもたらすことができたのはなぜか? 痛みを伴いながらも、日産を「グローバルのペースメーカー」へと変貌させたゴーン改革の「覚悟」と「実行力」のドラマをひも解く。 ※本稿は、近岡 裕『日産 最後のサバイバルプラン 転落の真因と復活への提言』(日経BP)の一部を抜粋・編集したものです。

ゴーン改革を振り返る リバイバル・プランの成功

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「日産に投資するのは、金を積めたコンテナに日産と書いたラベルを貼って海に捨てるようなものだ」

 かつて日産自動車は、提携や買収の可能性について問われた海外の自動車メーカーからここまで言われる屈辱を味わった。いわゆる「バブル経済」がはじけた後の1990年代、日産自動車は販売の低迷と工場の稼働率低下による固定費の増大に苦しみ、1993年度以降は1996年度を除いて最終赤字に沈んだ。1999年3月期末の有利子負債は2兆4815億円、うち自動車事業は1兆3487億円にも上った。これにより、日産自動車は倒産寸前にまで追い込まれた。

 窮状を救ったのは仏ルノーだ。日産自動車はルノーとの間で「アライアンス」と呼ぶ資本・業務提携を締結。ルノーが約5857億円を投じて日産自動車の株式の36.8%を取得し、経営権を握った。そして、経営再建のためにルノーが日産自動車に送り込んだのが、ルノーの上級副社長を務めていたカルロス・ゴーン氏だ。

 日産自動車で最高執行責任者(COO)となったゴーン氏は、1999年10月18日に経営再建計画「日産リバイバル・プラン」を発表した。利益と期間の数値目標をはっきりと示し、それらを「コミットメント(必達目標)」として設定する。そして、思い切った人員削減と工場の閉鎖にまで踏み切ったリストラ計画は、当時の日本企業では珍しく、強烈なインパクトを残した。ゴーン氏は2000年に日産自動車の社長に就任し、2001年からは最高経営責任者(CEO)を兼務するようになった。