マラッカ海峡はいまや、インド洋と南シナ海を結ぶ世界有数の海上交通の要衝だ。だが、岩礁や浅瀬が多いこの海域は、かつて難破や座礁の危険がつきまとう「難所」だった。そんな海峡が、なぜ東西交易の主役へと変わったのか。背景には、7世紀に安全航路が確立されたこと、そしてスマトラ島を拠点とする港市国家シュリーヴィジャヤの台頭がある。扶南から海上帝国へ――交易路の転換から、東南アジア史の大きなうねりを読み解く。
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マラッカ海峡の歴史を深読み!
マラッカ海峡は、スマトラ島とマレー半島の間に位置し、ベンガル湾と南シナ海を結ぶ海上交通の要衝です。インド洋を行き交う「海の道」の基盤は、モンスーン海流や季節風を利用したオーストロネシア語族の人々によって築かれました。やがてギリシア人やローマ人も紅海・インド洋交易に進出し、後1世紀には季節風を利用した交易が活発になります。
後2世紀には、ローマ帝国から後漢まで大国が並び、インド洋を介した東西交易が本格化しました。南インドと中国を結ぶ中継地となった東南アジアでは、港を中心とする港市国家が成立します。
その代表が、メコン川下流に形成された扶南です。当時の主要航路は、ベンガル湾からクラ地峡を陸路で越え、インドシナ半島沿岸を進むものでした。扶南の港オケオにはインド商人が訪れ、遺跡からはローマ金貨も発見されています。一方、マラッカ海峡は岩礁や浅瀬が多く、難破や座礁の危険が高かったため、まだ主要航路にはなっていませんでした。
危険なマラッカ海峡を「海の道」に変えたシュリーヴィジャヤ
この状況に変化が生じたのが、7世紀でした。この時期にマラッカ海峡の安全航路がようやく確立されたのです。とはいえ、マラッカ海峡がすぐに従来の交易路に取って代わったわけではなく、マラッカ海峡を主要航路たらしめたのが、スマトラ島を中心とする港市国家・シュリーヴィジャヤの興隆でした。シュリーヴィジャヤは7世紀に勃興すると、同世紀末にはマレー半島西部のクダ(現マレーシア・クダ州)を支配下に置き、マラッカ海峡を掌握するとともに東南アジアの海上貿易路の独占に着手します。
8世紀にはジャワ島を拠点とするシャイレンドラ朝と合邦(シャイレンドラ王家がシュリーヴィジャヤに君臨した、ないしはその逆とも)して真臘(しんろう)(カンボジア)を征服し、また唐の安南都護府(あんなんとごふ)(現ベトナム・ハノイ)にも派兵するなど、東南アジア各地に大規模な遠征を繰り返します。下図を見てください。
出典:地図で学ぶ「深読み」世界史
この時期にシャイレンドラ朝シュリーヴィジャヤが強勢となった理由は不明瞭であるものの、その繁栄は10世紀まで続くことになります。
唐の滅亡が“海上帝国”の繁栄を後押しした
というのも、中国で唐王朝が滅亡し、五代十国時代(907~60)という分断の時代を迎え、陸上のシルクロード貿易が不安定となったことでマリンロードへの依存が高まり、シュリーヴィジャヤの繁栄を後押ししたのです。シュリーヴィジャヤは東南アジア海洋域を支配した、紛れもないThalassocracy(海上帝国)であったと言えます。
とはいえ、シュリーヴィジャヤの国家としてのまとまりがどの程度であったかは議論の余地があり、港市国家である以上、港市(都市国家に相当)の連合体以上のものではないという見解もあります。事実、10世紀に入ると、中国の史書では「室利仏逝(しつりぶっせい)」(シュリーヴィジャヤの漢語名)の名が消え、代わって「三仏斉(さんぶっせい)」という勢力が登場します。従来は「三仏斉」はシュリーヴィジャヤの別称とされましたが、近年では中国(宋王朝)への朝貢貿易を目的にマラッカ海峡域の港市国家が連合を組んだものであったことが明らかになっています。
(本原稿は『地図で学ぶ「深読み」世界史』を一部抜粋・編集したものです)









