「おはよう」「こんにちは」を言わなくなると人はどうなる?小津安二郎が出した意外な答えPhoto:JIJI

「おはよう」「こんにちは」は、本当に必要な言葉なのだろうか。タイパや効率が重視される時代だからこそ、そう考える人も少なくない。しかし、ジョージ・オーウェルの『1984』や小津安二郎の『お早よう』は、そんな問いに異なる角度から向き合っている。私たちは、なぜ毎日挨拶を交わすのか。※本稿は、哲学者の鳥越覚生『なぜ人は挨拶するのか』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。

挨拶が消えた世界では
人は他人の顔を見失う

 私たちの生活は「おはよう」の挨拶で始まり、「おやすみなさい」の挨拶で終わります。そのほかにも「こんにちは」、「ありがとう」、「いただきます」、「おかあさん」、「おとうさん」、「おつかれさま」といった一語の挨拶に始まり、入学式や卒業式、入社式や壮行会における長い挨拶を含めると膨大な数の挨拶があります。

 挨拶が省略されたり、破棄されると、親しみや温もりのない無関心な世界になりますが、「挨拶が消えた世界」についてもう少し具体的に考察してみましょう。

 大人による挨拶の破棄から想像してみましょう。最低最悪な管理社会が実現した近未来を舞台とした小説として、ジョージ・オーウェル(1903-50)の『1984』(1949年)があります。そこには、国家が挨拶を含めた言葉全体を必要最低限まで省略し、破壊することで、人間の思考や記憶が貧困化するディストピア(夢と希望の理想郷であるユートピアの反対、夢も希望もない社会や世界のことです)が予言されています(編集部注/登場人物たちは、顔を合わせても「おはよう」や「こんにちは」といった挨拶をほとんど交わさず、第一声から用件に入る)。

 言葉の変化どころか言葉の破壊が人間を人でなしにする見本となる本です。仮に『1984』が行き過ぎだとしても、私たちの身近で起きているイジメやヘイトには、同じ地平で相手の顔をみた挨拶がありません。