「余計なことをいうな」とすぐ叱る大人だって、余計なことをしている、というのは否定できない事実です。悲しむべきは、家父長という役割、本音とは別の建前を子どもの前で崩せない昭和の父親の不器用さなのかもしれません(注1)。

一見無駄に思える挨拶が
世の中を豊かにしてくれる

 物語としては、実と勇の兄弟が余計な口をきかなくなることにより、さまざまな不都合や問題が起きていきます。それによって、最終的に挨拶をはじめとする言葉の大切さと難しさが再確認される訳ですが、ここで注目したいのは、実と勇に英語を教えている近所のお兄さん(平一郎)と実と勇の叔母(節子)との会話です。

節子:「余計なこと云うなって云われたら大人だって云うじゃないかって……オハヨウ、コンバンハ、コンニチハ、イイオテンキデスネェって…」

平一郎:「アア、なるほど、そりゃそうだ……だけど、そりゃ誰だって云うな」

節子:「そうですわ。誰だって云いますわ。」

『なぜ人は挨拶するのか』書影なぜ人は挨拶するのか』(鳥越覚生、筑摩書房)

平一郎:「でも、そんなこと、案外余計なことじゃないんじゃないかな。それ云わなかったら世の中味も素ッ気もなくなっちゃうんじゃないですかね。」

節子:「そうですわ。でも、この子たちにはまだ……」

平一郎:「そりゃ、わかりませんよ。そこまではね。でも無駄があるから、いいんじゃないかなァ。世の中。僕はそう思うな。」

「余計なこと」や「無駄」を省いて口をきかなくなると、「世の中味も素ッ気もなくなっちゃう」のです。子どもは大人の鏡なのですから、大人が率先して挨拶をし、豊かな言葉の大切さを身をもって示してゆくべきではないでしょうか。

(注1)昭和の親父が腹を割って心情を吐露できたのは男同士が付き合う酒場です。敬太郎さんもおでん屋で知り合いに、口をきかなくなった息子たちの愚痴をこぼしています。ちなみに、そこに居合わせたおじさんが「あんまり世の中便利になると、かえってあきまへんがなあ」と詠嘆しています。「便利さの追求」は「無駄を省くこと」と併せて熟考すべき問題です。