生活保護受給者や非課税世帯も
弱者叩きの標的になった

 社会的に公認された「明白な弱者」だけが「特別扱い」されるのは不公平だとして、「曖昧な弱者」が憤懣を抱き、「明白な弱者」に敵意を向ける。その結果、「弱者叩き」が繰り広げられ、本来は支援の対象であるはずの「明白な弱者」が誹謗の対象とされてしまう。

 しかし「曖昧な弱者」には悪いことをしているという意識はない。なぜなら「自分だってつらい」のだし、さらには「自分のほうがつらい」のだから。そのことを言い立てるための「弱者争い」が同時に繰り広げられ、それが「弱者叩き」を正当化する根拠となる。

 このとき繰り広げられていたのはこうした動きだったと言えるだろう。

 ただしそれは、コロナ禍という特殊な状況に固有のものだったわけではない。それ以前の時期にもしばしば見られ、それ以後はより頻繁に見られるようになったものだ。

 たとえば2010年代以降、「生活保護バッシング」と呼ばれる動きが繰り返されてきた。

 生活保護受給者という「明白な弱者」に、そこまでの困窮者ではないものの困難な生活を強いられている人々が「曖昧な弱者」として憤懣を抱き、批判を加えるというものだ。また、とくにコロナ禍以降は物価高対策などのために各種の給付金の支給が行われたが、多くの場合、その対象がいわゆる住民税非課税世帯だったため、新たな給付のたびに「非課税世帯バッシング」が繰り広げられた。

 いずれのケースもやはり、「自分だってつらいのに、なぜあいつらばかりが助けられるのか」という論理によるものだった。

 しかもこうした動きはお金に関するもの、つまり経済的弱者としての貧困層に対するものに限られていたわけではない。むしろより大規模に繰り広げられたのは、文化的弱者としてのマイノリティ、つまり差別されてきた人々に対するものだった。とりわけ女性や外国人をターゲットに、その「特別扱い」を非難するような論調が広がっていく。

リベラル派の「弱者リスト」は
恣意的ではないか?

 その際、「曖昧な弱者」の敵意が向けられるのは「明白な弱者」だけではない。いわばその庇護者であり、「弱者の特権」をそこに与えているとされる存在、リベラル派もその対象となる。