先週の会議を思い出してほしい。自分が一言も発言しなくても、結論は同じだったのではないか。給料も席も肩書もあるのに、自分がここにいる意味がわからない――いま「社内失業」と呼ばれるこの感覚は、あなたの能力や意欲の問題ではないかもしれない。84年前、ピーター・F・ドラッカーは、著書『産業人の未来』において、その正体を鮮やかに言い当てていた。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

ドラッカー 社内失業

不満はないのに満たされない

 朝の会議で発言しなくても、何も変わらなかった。頼まれた仕事はこなしている。評価も待遇も、特に文句はない。それなのに、何の役に立っているのかがわからない

 こうした感覚は、令和の職場で「社内失業」と呼ばれることがある。雇用も給与も維持されているのに、自分の存在意義を見失う現象だ。日本の完全失業率は2.5%と低水準で、失業は統計にはっきりと数字で表れる。だが社内失業は、どの統計にも計上されない。そして問題を抱えているのは、多くの場合その人自身ではない。

 この違和感の構造を80年以上前に描き出していたのが、ドラッカーが32歳で著した『産業人の未来』である。副題は「改革の原理としての保守主義」。ドラッカー自身が、社会に関わる基本的な理論の発展を目指した唯一の著作だと述べている本だ。

 本書でドラッカーは、社会が機能する条件を2つに絞った。1つは、一人ひとりが位置と役割をもつこと。もう1つは、権力が正統性をもつことである。社内失業に関わるのは前者だ。

目隠しでゲームをさせられる

 位置と役割とは何か。ドラッカーは、それをもたない者から社会がどう見えるかを、忘れがたい比喩で描いている。

馴染みのない部屋で目隠しをされ、ルールを知らないゲームをさせられているようなものである。しかもそこで賭けられているのは、彼ら自身の生計の資、幸福、時には生命でさえある。

――『産業人の未来』より

 自分がどんな役割を担い、何をすれば「成果」と認められるのか。それがわからないまま席だけがある状態を、ドラッカーはこう表現した。賭けられているのは自分の生計と幸福だ。だから居心地が悪いのは当然なのである。

 本書にはこうも書かれている。位置と役割をもたなければ、根なし草の目に社会は半分しか見えない。残りの半分は、暗闇という予測不能な魔物の世界にすぎない、と。組織の中にいながら、その組織が何をしているのか自分には見えない。この感覚は、決して珍しいものではないだろう。

安定した椅子は役割ではない

 社内失業への対処法を語ろうとすると、多くの議論は「雇用を守るか、成果で処遇するか」という対立に流れがちだ。だがドラッカーの論理は、その対立ごと解体する。

 彼が問題にしたのは、椅子が固定されているかどうかではない。ドラッカーは明確な位置と固定した地位の混同を、功利主義の哲学者ベンサムの致命的な誤りだったと指摘する。安定した椅子を与えることは、役割を与えることと同じではないのだ。

問題は、社会における個人の位置と役割が固定的であるか、柔軟であるか、流動的であるかではなく、それが明確でわかりやすく合理的であるか否かである。

――『産業人の未来』より

 判定基準は、固定か流動かではない。明確でわかりやすく合理的であるか否かだ。終身雇用の安定した席にいても役割が曖昧なら違和感は残る。逆に、担当がめまぐるしく変わる流動的な職場でも、自分の役割が明確なら人は落ち着いていられる。この視点に立てば、社内失業は雇用形態の問題ではないと言えるだろう。

責められるべきは本人ではない

 ここで視点を反転させたい。社内失業は、その人が働かなくなったから起きるのではない。組み込む設計を欠いた側で起きる。ドラッカーの論旨は、はっきりとこの方向を向いている。

もちろん罪を負うべきは、社会の失敗の犠牲者である大衆ではなく、彼らを組み込むことに失敗した社会である。

――『産業人の未来』より

 役割を与えられなかった人を責めるのは、筋が違う。責任は、その人を組み込めなかった側の設計にある。組織に置き換えれば、静かに手が空いている人がいるとき、問われるべきはその人の意欲ではなく、役割を明確に設計できなかった仕組みのほうだ、と本書の論理は告げているのだろう。

 もう1つ、ドラッカーは鋭い警告を残している。危険なのは反逆ではない。反逆もまた社会への参画の一形態だという。本当に危ういのは、無関心となり、しらけ、絶望にいたることのほうだ。会議で誰も反対しない組織を「まとまっている」と評価してしまう感覚への、80年以上前からの警告として読めるだろう。

 では、目に見える社内失業の下には、何が沈んでいるのか。ドラッカーはこの問題を氷山に喩えた。水面上に見えているのは一部にすぎず、危険なのは水中――すでに働いている人々の位置と役割の喪失だという。

給与はビタミンにすぎない

 本書は、大恐慌の時代を振り返り、人々が本当に求めていたのは経済的な保障ではなく、社会的な位置と役割だったと述べる。彼らは、自分が何を求めているのかを知らなかったがゆえに、経済的な保障を求めていたにすぎなかった。安定や手当を手にしても違和感が消えないのは、求めているものがそこにないからなのだろう。

 ドラッカーは、それを鮮やかな比喩で言い当てている。経済は人間にとってビタミンのようなものだ。その欠乏は病気をもたらすが、それ自体にはカロリーがない。給与や雇用保障はカロリーではない。人を動かす栄養は、別のところにある。手当を厚くしても、席を保証しても、それだけでは違和感は埋まらないだろう。埋めるのは、自分がここで何をなすのかという、位置と役割のほうだ。その先を、本書は静かに描いていく。