自己目的化しないサインは街中に転がっている

磯部 しかし、難しいですね。『踊ってはいけない国』シリーズ(河出書房新社)や『漂白される社会』(ダイヤモンド社)がそうであったように、とりあえず、「これからも考え続けていかなければならない」とでも言わないと締められないような話題です(笑)。

開沼 単に口先で言うのではなく、本当の意味で「考え続ける」ということは、ある面ではコミットし続けることでもあります。また、他の人にも考えてもらうことでもありますね。「糾弾・吊るし上げ型」の場合、当人はしっかりと考えていると思っていて、外からもそう見えるのでしょうが、どこかで1つの結論を出してしまっています。

和合亮一さんとの話でもありましたが、現実の事態は複雑だったり、流動的だったりするのにもかかわらず、安易に結論を導き出す。勝手に「起承転結」させてしまうことは、収まりがいいように見えて、思考停止しているということでもあります。だからこそ、「起承転転」でなければならないとおっしゃっていました。

 ただ、「『起承転転』は中途半端だ」「何を言いたいのかわからない」とも見えてしまうため、それならば、きっぱりと悪者を規定して、「あいつを叩け!」と言ってくれる指導者を求めてしまう。起承転転が良い、という前提を用意しなければ。

 書き手としては、本当は多くの人の視界に入っているのにもかかわらず、「見て見ぬふりをしてしまうもの」を掘り起こし、社会に位置付けることを意識的に行わなければなりません。どれだけ相手が不特定多数になろうとも、「ここに伝えれば影響が生まれるのではないか」とターゲティングして、そこに向けた情報発信をしてくことは僕の課題でもあります。

磯部 そこでは、持続可能性も課題になりますよね。運動にはある種の愉しさがないと続かないわけですが、「糾弾・吊るし上げ型」のような、強烈だけれども冷めやすく、あるいは、ハマってしまったら依存性の高いものではない快楽のあり方も、起承転転転転……と永遠に続くからこそ模索しなければならない。それは、「他人のためになることをするのって気持ちいいな」みたいな、素朴なものでしかないでしょうが。

開沼 ただ、持続可能になった瞬間、いわゆる“しがらみ”も生まれてきます。

磯部 そうですね。自己目的化が進むでしょうし。例えば、最近、東京では地震が少なくなったような気もしますけど、それでも揺れると「ドキッ」とするじゃないですか。そこで、改めて3・11のことを思い出すというか、実際、汚染水の問題が騒がれているように、福島第一原発の事故は収束の目処がまったく立っていません。

 あるいは、震災を体験したからこそ、小さな揺れも感じやすくなりましたよね。そうした「サイン」は地震だけではないと思うんです。風営法の問題も同じで、街中を歩いていて目に入ってくる、「あれ、この辺りガールズバーが増えてきたな」とか「昔からあったあの店閉まっちゃったんだ」とか、一見何でもないような光景も実はサインです。

 持続可能性を模索しながら自己目的化を避けるには、何度も言ってきたように、長期的な目標に向かうことも大切ですが、それだけに囚われず、瞬間瞬間、現場現場に対応して柔軟に態度を変えていくことが重要です。そして、そのためにはサインに敏感にならなくてはいけません。

開沼 そうですね。

磯部 『漂白される社会』のテーマにもつながる話です。街がきれいになったように見えて、実は至るところにサインがあります。それは、飲み屋街に紛れ込んだ脱法ドラッグショップかもしれないし、中国エステなのかもしれない。とは言え、彼らも風景に溶け込むために努力しているので、何気なく前を通っているだけでは気づかない。だからこそ、それを指摘し、強調するのが我々の役目なんじゃないかなと。

開沼 書き手としては、それをやっていきたいですよね。

磯部 それをやり過ぎると、マイノリティを追い込むことにもなってしまうので、バランスを考えないといけないですけどね。繰り返しになりますが、開沼さんが扱っている原発問題は複雑かつ対象が広いため、意見を異にするクラスタ間の対話をオーガナイズすることが困難で、だからこそ、あえて、扇動的な態度を取られているようなところもあると思います。

 一方、クラブと風営法の問題はニッチなので、それを無闇に広めるわけではなく、興味を持ってくれた人と熟議し、行動し、そこでの成果を他の問題にも還元していけたらなと考えています。

開沼 しっかりとターゲティングして、そこに向けた情報発信をしてくことは僕の課題でもあります。これまでも実行していましたが、今後はもっと必要になってくると思います。

磯部 今回は長期と短期というタームで話を進めてきましたが、どれぐらいの人を相手にするかというパイの概念も重要ですよね。解決までに時間が掛かり過ぎたり、対象が広過ぎたりすると、結局、問題がぼんやりしてしまいますから。できるだけ、ピンポイントの解決を積み重ねていくことが大切なのかもしれません。原発問題なんてほとんど文学論争みたいになってしまっていますよね。

開沼 「我々、日本人は、これまでのすべてを反省し…」「民主主義のあり方を根底から変えなければ…」のように、文明論を展開する“ネタ”としては最高の素材ですから。「いやいや、目の前にある現実を『見て見ぬふり』しないで、直視しましょうよ」と言い続けてきたわけですけど。

磯部 人類が滅亡した後も放射性物質の管理は続くとか、もんじゅが事故を起こしたら北半球が壊滅するとか、途方もないからこそまるで文学的な問題のように感じられて、実際、「3・11」はそうやって消費されてしまった側面もあると思うんです。ただ、現実には、こうしているいまも福島第一原発ではたくさんの方が事態を食い止めるために作業をされているわけで、原発問題は、「瞬間瞬間、現場現場」の問題でもあります。