「糾弾・吊るし上げ型」から「拾い上げ・コーディネート型」へ
磯部 音楽に関して言えば、この分野は産業としてはもはや「オワコン」です。メジャー・レーベルも安全パイにしか手を出しません。それもあって、いまの若いミュージシャンたちの中には、音楽で食べていこうとは考えていない人も多いんです。
社会学者、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。学術誌のほか、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポルタージュ・評論・書評などを執筆。読売新聞読書委員(2013年~)。
主な著書に、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)など。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。
開沼 儲けられた時代を知らないので、それがどう楽しいのかも知らない。
磯部 ただ、彼らは彼らで楽しそうにも見えます。販売や宣伝の方法を自分たちで模索しなければならない状況が当たり前になっているのですが、ネット環境の発達によってやりやすくなってもいるんですよ。かつて、DIYやインディペンデント・スピリット等と呼ばれた哲学を無意識に体現してしまっていると言えるかもしれません。あるいは、脱法風俗業者と同じような強かさも感じます。
また、音楽と他の仕事を掛け持つことに躊躇がない人も多くて、むしろ、仕事に誇りを持っていたりする。本来、音楽には現実逃避的な性格があるので、それだけに専念しているとどんどん浮世離れしていってしまうのですが、彼らはしっかりと地に足が着いている。その様子を見ていると「たくましいな」と思います。
逆に、音楽で儲けられた時代を知っている世代のほうが、過去の方法論に固執していて、往生際が悪く見えるときがあって。そういう意味では、新しい世代に期待していますし、彼らの堅実さには学ぶべきところが多いんじゃないでしょうか。
開沼 諦めるというプロセスが必要な世代と、最初から諦めている世代の違いかもしれませんね。社会運動に興味を持っている若者にも通じると思いますが、諦めてしまっているが故に、自分たちでしたたかに、健気にルートを作っていくという話があります。
それに加えて、磯部さんがおっしゃった事例のように、地に足をつけて現場を押さえていかないと長続きしないという感覚、真面目さというか、将来を見据えている感じがある点には同意するところです。こうしたマクロなトレンドはマジョリティになり得ると思いますか?
磯部 マジョリティになってほしいのですが、一方で、多くの人にそこまでのことを求めるのは現実的ではないのかなとも思います。
開沼 「○○がかっこいい」と言って、第2、第3のモデルをつくることも悪くないと思いますが、その流れが続かないといけません。僕は「糾弾・吊るし上げ型」の社会作りと、「拾い上げ・コーディネート型」の社会作りと呼んでいますが、どうしても「糾弾・吊るし上げ型」になっていくと思うんですね。
社会に貢献したい、社会を良くしたいと行動するとき、「悪者を見つけて糾弾しよう」とはならずに、しっかりと現場のことを拾い上げて、コーディネートしていく方向に向かわなければならないと思っています。
磯部 荻上チキさんが言うところの「ダメ出しよりもポジ出しを」ってやつですね。
開沼 まさに「ポジ出し」です。糾弾・吊るし上げ型のほうが魅力的なのかもしれません。何かを決断し、何かと戦い、何か新しいものを提示しているようでもあります。しかし、「そうじゃないんだよ」というロジックがなかなか進みません。
磯部 例えば、風営法問題に関して言うと、「どっちもどっち」は悪い意味での相対化につながるという話をしましたが、僕自身、相当な迷いを持っています。メディアの人間としては、世間のリテラシーが上がった方がいいと思う一方で、業界側に立つと、いかにお客さんがそんなことを考えないで済むように設計するかがスマートなやり方だとも思うわけです。
開沼 そうですね。
磯部 いまのように問題が露呈している状況は、相当いびつだとも言えます。風営法改正運動が国民運動になればまた違うのでしょうが、そんなことは起こり得ず、中途半端に動員した結果、警察側が態度を頑なにしてしまったという悪影響もありました。あるいは、誰もが社会運動に関わっているような社会は、息苦しいと言えば息苦しいですよね。
開沼 それはそうですね。社会作りをしようと気づいてしまった人、思い立ってしまった人がやることだとも思います。
磯部 その一定層をいかに、確実に作るかということですかね。
開沼 気づいてしまった人のなかで、「糾弾・吊るし上げ型」にいくのか、「拾い上げ・コーディネート型」に進むのか分かれます。そのときに、「拾い上げ・コーディネート型」に行かせるためにはどうすればいいのか。コミットすることはその1つの方法ですが、コミットが面倒くさいとなってしまうと、Twitterで誰かを糾弾しているほうが楽しいという方向になってしまうかもしれませんね。
磯部 「気づき」というフレーズはいわゆるスピリチュアル用語の定番ですが、非日常的なニュアンスがあり、「気づいてしまった、意識の高い人間」と「まだ気づいていない、意識の低い人間」を差別化します。そして、「気づかせようとしない権力」に立ち向かうといった上下構造に思考が至りがちなので、結果、浮世離れしてしまうのではないでしょうか。それよりは、日常的で、平面的=ネットワーク的な、普通の社会運動を組織するべきだと言うことなのかもしれません。