公園のゴミ置き場を前に立ちすくみ、「カメ……」と呟いた2歳の娘。黄色いネットがかかったゴミ袋の山は、確かに大きなリクガメのようにも見えました。大人はそれを単なる「子どもの可愛らしい見立て」として通り過ぎてしまいがちです。しかし、そこには印象派の巨匠クロード・モネが、生涯で250枚以上もの《睡蓮》を描き続けた理由とまったく同じ、「世界を捉える視線」が潜んでいました。本記事では、ベストセラー『13歳からのアート思考』著者・末永幸歩氏の6年ぶりの新刊『「いまを生きる力」を取り戻す 感性の教室』から内容を一部抜粋して、「見る」という当たり前の行為の奥に隠された、驚くべき秘密を解き明かします。
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ゴミ置き場にいた「巨大な生き物」
前回の記事まで、《ルーアン大聖堂》を題材にしながら「見る」という行為に隠された秘密を考えてきました。
一方で、「色は感覚にすぎない」という科学的認識をお伝えするためだけであれば、わざわざモネの話を持ち出すまでもないと感じた方もいるかもしれません。
そこで、「見ること」をめぐる探究をもっと深めていくためにも、ここからは「子どもの視点」を補助線として加えてみたいと思います。
ある日の朝、私は当時2歳だった娘と、いつものように近所の公園に行きました。
しかし遊びはじめてすぐに、娘の目があるものに釘づけになってしまいました。

視線の先にあったのは、公園の一角のゴミ置き場です。娘はゴミの山に目を向け、「カメ……」と呟きました。
なんのことを言っているのか、すぐにはわかりませんでした。
しかし、よくよく眺めていると、黄色い網が被さったゴミ袋のかたまり全体が、こちらに背を向けている「巨大なカメ」のように見えてくるではありませんか(あなたにも見えますか?)。
子どものユニークな視点に私は膝を打ちました。動物園で大きなリクガメを見たことがあったので、そのときのイメージとつながったのかもしれません。
発達心理学の世界では、このように「あるものをまったく別のなにかに見立てる行為」が幼児期によく見られることが知られています。
似たような特性は、幼児の絵にも現れます。2歳前後の子どもたちは、何を描くかを決めないまま線や円などを描き、そこに現れたかたちをなにかに見立てて、それに命名しようとします。たまたま描いた1つの円を見て「これはリンゴだよ」と言い、あとから「これはお皿」などと意味を変化させることもあります。
娘と一緒に「カメ」を発見できてうれしくなった私は、「ほんとだ! ゴミがカメみたいに見えるね」と言いながら、そこに近づこうとしました。
しかし娘は、緊張した顔つきでその場に立ちすくんでいます。その様子は、それがゴミなのだとわかりきっている私の気楽さとは明らかに違っていました。
とはいえ、ここで特筆したいのは、彼女はゴミの山を「本物の巨大ガメ」だと完全に思い込んでいるわけでもなさそうだったという点です。
そもそも、娘はふだんよく訪れる公園のこの場所にゴミ置き場があるのを知っていたはずです。また、巨大ガメの存在に驚いたり怖がったりしているというよりは、その一歩手前の状態で、ただ訝しんでいるように見えたからです。
その姿は、目の前にあるものを「ゴミ」であるとも「カメ」であるとも断定しかねているようでした。



