「話題の映画を見ても、ネットの感想と同じことしか思えない」「美術館に行ってきた。でも、あまり心に残った作品がない。……順路に沿って歩き回らされて、ただ疲れただけのような気もする」日常の中で、そんなもやもやとした経験はありませんか? なぜ私たちは、素晴らしい芸術や体験に触れても「自分なりの感動」を得られなくなってしまうのでしょうか。新刊『「いまを生きる力」を取り戻す 感性の教室』から内容を一部抜粋して、「感性」の正体についてお届けします。

「話題の映画を見ても、ネットの感想と同じことしか思えない」――「感性」とはなんだろう?Photo: Adobe Stock

扉を開けたとき起こること
――「感性」とはなんだろう?

「“見る”ことからはじめよう」という話をすると、しばしば誤解されることがあります。
それは、先入観を排して細部までくまなく見る「観察眼」を鍛えることだと思われがちだからです。

たしかに、アート鑑賞やデッサンなどを通してそのような力を養うトレーニングは存在するようです。
けれども、この本では「対象を客観的に捉えるための技術」を扱うわけではありません。むしろ「世界からの働きかけを全身で受け止める能力」の話をしたいのです。

私はこれを「感性」と呼んでいます。
そこにはいわゆる観察眼も含まれるかもしれませんが、それだけではありません。目に見えるものだけではなく目には見えないものも含まれます。

世界からの働きかけを、自分自身の「心」や「身体のあらゆる感覚」を通じて受け止め、そこから自分なりに感じること─それが本書で扱っていきたい「感性」です。

ちょっとイメージしにくいでしょうか?
そんな方は、「扉」を思い浮かべてみてください。
玄関やクローゼットの扉ではありません。ヨーロッパの古い家屋の窓に備えつけられた、木製の鎧戸のような扉です。

遠い国のある街。そのアパートメントの一室――。

あなたはそこで目を覚ましました。
部屋のなかは暗く、物音ひとつしません。まだ夜明け前かな……と思いつつ枕元の時計に目をやると、もうすっかり朝ではありませんか。
眠い目をこすりながら手探りで窓辺に向かったあなたは、ギシギシと軋むガラス窓の木枠を、力を込めて引き上げます。続いて、窓の外側にある木製の鎧戸に両手を掛け、それを外側に向かって左右に勢いよく開きました。

「話題の映画を見ても、ネットの感想と同じことしか思えない」――「感性」とはなんだろう?イラスト:末永幸歩

とたんに、眩しいほどの陽の光が差し込み、部屋中が一斉に明るく照らされます。
また、入ってきたのは光だけではありません。
近所のパン屋からは甘く香ばしい匂いが漂い込んできて、通りを吹き抜ける心地よい風が部屋のテーブルクロスをサラサラと揺らします。路地を歩く人たちの声や、どこからか聞こえてくる音楽の旋律が、かすかに部屋のなかにまで流れ込んできました。

このように、外の世界に、光や匂い、風や音があふれていても、窓や鎧戸が閉じられているかぎり、それらが部屋に入ってくることはありません。
しかし、ひとたびそれを開けさえすれば、こちらが探したり捕えようとしたりしなくても、向こうから勝手にいろんなものが入ってきてくれるのです。

感性とは、この「」のようなものです。
「感性が豊かな人」とは、窓と鎧戸を大きく開いている人です。

扉を開け放つことは、世界からの働きかけを「受け入れる」準備をすることです。そして、扉の外から流れ込んでくるものを、その人の心や身体でしっかりと「受け止め」ます。
このように、世界からの働きかけを「受け入れ」「受け止めて」こそ、人はそこからなにかを「感じる」ことができるのです。

他方で、「感性の扉」がいつの間にか閉じてしまっている人は─?
こんなことはありませんか?

「美術館に行ってきた。でも、あまり心に残った作品がない。
……順路に沿って歩き回らされて、ただ疲れただけのような気もする」

「話題の映画を見た。映像がきれいだったし、あの役者の演技はやっぱりすごい。
……あれ? でもこの感想って、どこかで事前に仕入れていたレビューとほとんど同じ」

「本を読むようにしている。読んだあとは、読書アプリに感想を書いて
……あれ? これってただ内容を簡潔にサマライズしているだけかも」

たとえ美術館で名画を前にしても、どれだけ魅力的な映画や音楽に触れても、たくさんの書物を読んだとしても、感性が閉じていては、そこから自分なりになにかを感じることはできません。

あなたの「感性の扉」は、いまどんな状態でしょうか?
知らないうちに閉まりかけていたり、気づけば固く閉ざされていたなんてことはないでしょうか?