「早慶両校戦わず」は、実に19年の長きにわたり続いたが、この間に明治大学、法政大学、立教大学を加えた大学野球の「リーグ戦」が発足。1925年には東京帝国大学も参加して「東京六大学」が生まれた。この年から「早慶戦」も復活し、東京六大学は日本野球のトップリーグとなり、大きな人気を博すようになった。

野球害毒論を展開した
朝日新聞の手のひら返し

 しかし大学野球のあまりの過熱ぶりに一部の有識者が眉を顰め「野球害毒論」を展開する。

 1911年、この論陣を張ったのが「東京朝日新聞」だった。新渡戸稲造第一高等学校校長、乃木希典学習院院長など、錚々たる著名人が「野球は賤技なり剛勇の気なし」とか、「必要ならざる運動」など野球を全否定する論調を展開した。

 これに対して、野球の有用性を説いたのが「東京日日新聞」だ。早稲田大学野球部の実質的な創設者である安部磯雄や、作家押川春浪などが、野球擁護の論陣を張った。

 この「野球害毒論」の背景には、先述した「早慶戦」の過熱など、異常ともいえる「大学野球ブーム」があった。大学指導者は選手の引き抜きに奔走した。選手の中には、学生の本分を忘れ遊興にふける者も出た。

 すでに明治末年には、野球は大学、旧制高校だけでなく、中等学校レベルにまで浸透し、地域では様々な大会が行われていた。「野球害毒論」は、こうした野球ブームの過熱に冷水を浴びせる意図もあったのだ。

 また、この時期、大阪毎日新聞が東京日日新聞を買収し、東京に進出しようとしていた。大阪毎日新聞は、1910年10月に「日米野球大試合」を開催するなど、野球擁護派だった。東京朝日新聞は、「野球害毒論」で東京日日新聞を叩くことで、毎日の東京進出をけん制しようとしていた。要するに「朝日対毎日」の代理戦争と言う側面もあったのだ。

「朝日」は、野球排撃の急先鋒メディアのように見えたが、それは「東京朝日」に限ってのことだった。「野球害毒論」キャンペーンを打った2年後の1913年10月に「大阪朝日」は、日米の大学生による「日米大野球戦」を開催している。そして1915年には今の夏の甲子園の前身である、全国中等学校優勝野球大会を始めるのだ。