勝家勢は敗れただけでなく
ことごとく哀れな末路に
敗走を余儀なくされた勝家は、居城の北庄城(きたのしょうじょう)に退却しますが、秀吉勢の兵に囲まれ、妻のお市らとともに自害しました。1583(天正11)年4月24日。賤ヶ岳で敗れてからわずか3日後のことでした。
北庄城跡に立つ柴田勝家公像 撮影:今泉慎一(風来堂)
盛政は戦地から逃れるも捕らえられ、斬首に処されます。揖斐川の増水により参戦できなかった信孝も勝家敗北後、岐阜城を包囲されて降伏し、切腹を遂げました。柴田勢はことごとく哀れな末路を辿(たど)りました。
一方、賤ヶ岳の戦いで功を挙げた重晴は、戦後は加増を受けたとされます。1585(天正13)年の紀州征伐にも参加。紀州平定後には秀長の家老となり、和歌山城代として3万石を与えられるなど、着実に出世してゆきました。
竹田城。和歌山城に移封されるまで桑山重晴が居城とした 撮影:今泉慎一(風来堂)
和歌山城の天守台石垣。羽柴秀長による築城時のもの 撮影:今泉慎一(風来堂)
勝負は時の運。賤ヶ岳の戦いの秀吉にはそれがありました。もちろん、運によってもたらされた「好機」を見逃さず、的確な判断を下す武将としての才覚もなければ、勝利を手に入れることはできないのですが。
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