左:織田信雄画像(総見寺蔵)/右:織田信孝像 歌川国芳「太平記英勇伝」(1849年) 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
1582年の本能寺の変後、清須会議で織田家の後継は信長の孫・三法師に決まった。わずか3歳の三法師を支える名代の座を巡り、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝が争った。当時の評価は対照的で、信雄は凡庸、信孝は聡明で人望厚いと評されていた。だが清須会議後の二人の人生は、その評価とはかけ離れた道をたどることになる。(古城探訪家 今泉慎一、執筆協力/加藤桐子)
後継者にも後見役にも
なれなかった織田家の兄弟
信長の跡目を決める清須会議ののち、織田家の後継となったのは、信長の孫である三法師(さんぼうし)でした。三法師はこのとき、わずか3歳。当然、政を行うことはできません。そこで、三法師を支える名代の座を争ったとされるのが、信長の次男・信雄(のぶかつ)と三男・信孝(のぶたか)でした。
信雄と信孝は三法師の叔父にあたります。すでに成人している彼らが、三法師の後見役となるのが妥当なところでしたが、結局は四宿老(柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興)を中心とした家臣らによる合議制となりました。
信雄・信孝は、後見役になるには実力不足の人物だったのでしょうか?
信雄の武将としての評価は
同時代も後世もイマイチ
信雄の武将としての評価はどうだったのでしょうか。当時、日本を訪れていた宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』では、「愚鈍」「知恵が劣っている」「思慮が浅い軽率な人物」などと評されています。
織田信雄画像(総見寺蔵) 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
散々な言われようですが、その背景には第一次天正伊賀の乱での失態が、やはり大きかったと思います。
1579(天正7)年、信雄は伊賀国に攻撃を仕掛けました。







