織田信長長宗我部元親(左):「絹本著色長宗我部元親像」(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)、徳川家康(右):徳川家康三方ヶ原戦役画像(出典:Wikimedia Commons、徳川美術館所蔵、パブリックドメイン)

本能寺の変の「黒幕」は徳川家康なのか、津田信澄なのか。それとも長宗我部元親、朝廷、足利義昭、あるいは秀吉なのか――。戦国史最大の謎をめぐっては、今なお多くの説が語られています。しかし、史料に照らして一つずつ検証すると、有力とされた説にも意外な矛盾が見えてきます。歴史ファンを魅了し続ける「黒幕説」の真相に迫ります。(古城探訪家 今泉慎一)

大河ドラマが描く「本能寺の変」の黒幕
実際の史料で検証

 歴史好きや大河ドラマファンでなくても、本能寺の変を知らない日本人は、おそらくほとんどいないでしょう。自ら掲げた「天下布武」を目前にして、明智光秀の謀反に斃(たお)れた織田信長。大河ドラマ『豊臣兄弟!』第27話でも描かれますが、この戦国時代でもトップクラスの一大事件には、数々の謎があります。

本能寺の変本能寺焼討之図(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
本能寺跡(油小路通蛸薬師下ル)。現・本能寺とは約1km西南西に離れている本能寺跡(油小路通蛸薬師下ル)。現・本能寺とは約1km西南西に離れている

 なぜ、光秀は謀反を起こしたのか。その決断は突然すぎますし、守備が手薄な信長に対して、大軍を編成し準備万端だった光秀という状況も偶然にしては出来過ぎです。光秀のいた丹波・亀山城(現・京都府亀岡市)は、本能寺のある京(洛中)までわずか数時間の距離でした。

明知越の亀山側入口明知越の亀山側入口  撮影:今泉慎一(風来堂)

 光秀一人の企(たくら)みではなく、共犯者いや主犯となる黒幕がいたのでは? との説も多々あります。『豊臣兄弟!』の第26回では信長の甥・津田信澄が、足利義昭から届いたとされる「信長を討て」という御内書について、「あれを書いたのは……このわたくしでございます」と自ら明かす場面が描かれて、キーマンとして描かれています。

 さらに『豊臣兄弟!』の第27回「本能寺の変」の予告を見た視聴者からは、「徳川家康・黒幕説」も話題にのぼっています。果たして本当の黒幕は誰なのか。他の説も含め、数々の謎を史料を追って検証してみたいと思います。

神社でくじをしきりに引く…
「本能寺の変」前後の光秀の行動

 まずは、1582(天正10)年5月中旬~6月上旬、光秀の行動を時系列で確認しておきましょう。