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今泉慎一
こんな部下がいたら命取り…秀吉に敗れた柴田勝家、勝機を潰した「猛将」の名
1582年、本能寺の変で織田信長が倒れると、後継をめぐって家臣団の対立が深まった。翌年、織田家の筆頭格だった柴田勝家と、山崎の戦いで明智光秀を破って台頭した羽柴秀吉が賤ヶ岳で激突する。兵力、地理、家臣の動き、そして戦場で重なった偶然――。百戦錬磨の勝家は、なぜ秀吉に敗れたのか。決戦までの経緯と勝敗を分けた局面をたどる。

「信長の息子2人」の明暗分けた決定的な違いとは?「愚鈍」な信雄は73歳まで生き、「人望がある」信孝は自刃
1582年の本能寺の変後、清須会議で織田家の後継は信長の孫・三法師に決まった。わずか3歳の三法師を支える名代の座を巡り、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝が争った。当時の評価は対照的で、信雄は凡庸、信孝は聡明で人望厚いと評されていた。だが清須会議後の二人の人生は、その評価とはかけ離れた道をたどることになる。

そりゃ秀吉が出世するわ…「格上」の柴田勝家を追い抜いた〈根回し力〉がエグすぎた
織田信長が本能寺の変で倒れ、後継体制をめぐって重臣たちが動き始めた。山崎の戦いで明智光秀を破った羽柴秀吉は、清須会議や信長の葬儀で存在感を強めていく。柴田勝家ら格上の重臣を追いぬいた「あざとすぎる一手」とは――。

明智光秀にも勝機はあった…地図を見ればわかる「地の利」と「秀吉の遅参」、それでも敗れた“まさかの理由”
本能寺の変のわずか11日後、明智光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、天下取りの夢は潰えました。しかし、本当に最初から勝負は決まっていたのでしょうか。地図を見れば、決戦の地・山崎はむしろ光秀に有利な地形でした。さらに、最新資料からは秀吉が開戦時に現地へ到着していなかった可能性も浮上しています。それでも光秀が敗れた理由とは何だったのでしょうか。

そりゃ天下人になるわ…光秀を討った秀吉の「成果の見せ方」がうますぎた
本能寺の変で信長が明智光秀に討ち取られた直後、秀吉は備中高松城から山崎まで驚異的な速さで引き返し、光秀を討った。世に言う「中国大返し」だが、「1日80kmの行軍」は実現可能だったのか。古城探訪家の今泉慎一さんは「1日80kmの行軍」は、対立を深めていたある人物に功績をアピールする狙いがあったのではないかという――。

明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか…家康、秀吉、信澄ら「黒幕説」を検証してわかった「本当の理由」【本能寺の変】
本能寺の変の「黒幕」は徳川家康なのか、津田信澄なのか。それとも長宗我部元親、朝廷、足利義昭、あるいは秀吉なのか――。戦国史最大の謎をめぐっては、今なお多くの説が語られています。しかし、史料に照らして一つずつ検証すると、有力とされた説にも意外な矛盾が見えてきます。歴史ファンを魅了し続ける「黒幕説」の真相に迫ります。

信長はなぜ「秀吉」は許し、「佐久間信盛」を追放したのか…〈同じ失敗〉でも明暗を分けた決定的な違い
1580年、織田信長は突如として重臣・佐久間信盛を追放する。30年も忠実に仕えた信盛に送り付けられた19条におよぶ激烈な「折檻(せっかん)状」の中身とは?なぜ信盛はターゲットになったのか。この折檻(せっかん)状より3年前に、似たような行動をとったのに信長の赦(ゆる)しを得た羽柴秀吉との「決定的な違い」とは?
