Photo:AFP=JIJI
戦後日本を代表する経営者の一人で、トヨタ自動車元社長・会長、経団連会長を務めた奥田碩氏が2026年8月8日、93歳で死去した。28年ぶりの非創業家社長として巨大企業を率いた奥田氏は、異様なほど「速さ」にこだわった。その経営哲学は、初代プリウスの開発でどう発揮されたのか。(イトモス研究所所長 小倉健一)
「スピードは麻薬」
“超スピード狂”の異色の経営者
日経ビジネス1995年7月17日号の「愛車のアクセル全開で憂さ晴らし 奥田 碩氏[トヨタ自動車副社長]」という記事に描かれた奥田碩を一言で圧縮すれば、「超スピード狂」である。
《奥田さんが高速道路を走る時、行く手を阻むのは空気の壁だけだ。ノロノロ走る車が前にいると、車間距離をぐっと詰め、パッシングの連続で押しのける。走るのは当然、右端の追い越し車線。アクセルは全開が基本だ》
愛車は4リッターV8、260馬力のアリスト。自社のテストコースでは200キロ以上で走る機会もままあったといい、「スピードは麻薬。高速で走っていると、脳の中で気持ちを高ぶらせ、快感に導く物質が分泌されるようだ」「トロトロ走る役員車に乗っているとイライラする」という発言まで紹介されている。
公道での危険運転を褒めることはできない。だが、この異様なまでの速度への執着は、奥田の経営そのものでもあった。
1995年8月、奥田は28年ぶりとなる豊田家出身ではない社長に就いた。当時のトヨタは倒産寸前の会社ではない。世界有数の自動車メーカーである。だからこそ奥田は危機を感じた。社長就任直後のインタビューでも、RV市場の急拡大を読み切れず、商品投入が遅れたことを率直に認めている。
強い会社ほど、昨日までの成功にしがみつく。担当者が説明し、課長が確認し、部長が直し、役員会で「もう少し検討しよう」となる。誰も間違っていないのに、会社だけが遅くなる。奥田はそこに手を突っ込んだ。
エレベーターに乗っている数十秒の間に部下の案を決裁したという逸話が残り、「机の上の書類は1分でなくなる」とまで言われた。1996年には常務以上19人のうち17人を入れ替えた。慎重な巨大企業の運転席に、とんでもなくせっかちな男が座ったのである。
その性格が最も大きな形になったのがプリウスだ。







