世の中をあっと言わせる偉業を成し遂げた人は、どんなことを考えていたのか。サラリーマンでありながらサンダンス映画祭で日本映画史上初のグランプリを受賞し、『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』を上梓した長久允氏の思考を辿ります。(構成/ダイヤモンド社書籍編集局)

脚本の教室Photo: Adobe Stock

「それっぽい」ものを作っていた

 かつてやりたかったことがあったのに、いつの間にか胸の奥にしまい込んでしまった。

 そんな思いを抱えながら働いている人は、少なくないのではないでしょうか。

 目の前の仕事に取り組むうちに、「いつかやりたい」は、いつの間にか「もう遅い」に変わっている。

 電通社員でありながら世界的な映画監督・脚本家として活躍する長久允(ながひさまこと)さんも、まさにその感覚を持っていた人です。

 22歳の頃、私は映画監督になりたかった。大学生だった。
 私の学校の横には小さな映画館があって、よく授業の合間にそこで映画を観た。次第にそれらに影響され、私も映画を作りたい、それを仕事にして生きていきたいと思っていた。

 

 そのためにはまずPFF(ぴあフィルムフェスティバルという若手映画監督の登竜門的賞レース)で評価されたかった。売れたかった。自分が「最高だと思うか」なんかよりも、他者から評価されることを目指していた。「なんとなく映画っぽい」「それっぽい」ものを作っていた。作るべきだと思っていた。


――『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』p5より

 けれど当時の長久さんは、自分が「最高だと思うか」よりも、他者から評価されることを目指していたといいます。

 だから、「それっぽい」ものを作っていたと。

 自分が当時感じていた本当の気持ちや、伝えたいことは横に置いたまま、流行りを追っていたのだそうです。

 当然、そんな映画はさっぱりなんの賞にも引っかからなかった。(今となっては当然だと思えるけれど、当時はわからなかった。雰囲気だけの空っぽな映画に価値なんてないんだよね。)かろうじてミニシアターのレイトショーで1週間上映まではできたけど、ひとつも話題にはならなかった。

 タイムリミットが来た。22歳の4月になった。
 そうして私は就職をして、スーツを着て、営業職についた。つまり、脚本家、映画監督になる夢をあきらめた。


――『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』p6-7より

自分を信じて逆転

 しかし長久さんはそれから十数年後、ハリウッドといくつものプロジェクトで脚本の仕事をするようになります。

 ハリウッドから直接監督のオファーも来て、ずっと憧れていたサンダンス映画祭で日本人で初めて世界一を獲りました。

 それはあまりに劇的な逆転です。

 では、22歳の頃と今とで何が違ったのでしょうか。長久さんは、こう語ります。

 「自由にのびのび書いた」だけでした。「それっぽさ」から遠く離れて書くということ。それだけでした。


――『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』p7-8より

 夢を取り戻すというと、「会社を辞めてゼロからやり直す」というような、大きな決断を想像してしまいます。

 しかし最初に取り戻すべきなのは、自分自身なのかもしれません。

 誰かの評価ではなく、自分は何を本当に伝えたいのか。そこに戻ることが、諦めた夢をもう一度動かす入口になるのだと思います。

 長久さんは、こうも言います。

 ビジネスになっているかどうかは問題ではありません。自分を信じて書いていたら勝手にそのうちビジネスになるから安心していい。むしろ、作家性が確立し、たまにある作り手サイドの労力と魂を軽視した「しょうもないタイプのコンテンツビジネス」の歯車にならずに済むでしょう。


――『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』p11より

 もちろん、働くうえでビジネスを考えなくていいわけではありません。生活もありますし、会社の中で求められる成果もあります。

 けれど、最初からビジネスになりそうなものだけを狙うと、自分にしか作れないものから離れてしまうことがある。

 むしろ、自分を信じて、自由にのびのびと作ること。その先に、結果として仕事や評価がついてくることもあるのだと、長久さんのキャリアは教えてくれます。