第二次世界大戦中のアメリカで、11万人を超える日系人が突然、強制収容所へ送られた。なかにはアメリカで生まれた市民も多く含まれていたが、真珠湾攻撃後に広がった恐怖と偏見のなかで、家や土地、仕事、自由まで奪われていった。なぜ自国民が「敵」とみなされ、ここまでの扱いを受けたのか。『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からのアメリカ史』から紹介する。

「アメリカ市民なのになぜ?」11万人の日系人を待っていたあまりに理不尽な運命Photo: Adobe Stock

アメリカにおける日系人の強制収容

 日系アメリカ人は、西海岸の人口のたった2パーセントくらいだった。それでも、彼らはひどい差別に直面していた。日本で生まれた日系アメリカ人(一世)は、帰化することも、土地を所有することも認められていなかった。アメリカで生まれた子どもたち(二世)は、アメリカ市民ではあったけれど、引き続き差別にさらされていた。

 西海岸の議員たちは、それまでにも長年にわたり、日本人を差別する法律を制定していた。彼らは、真珠湾攻撃によってアメリカ人が日本に恐怖と怒りを抱くと、それを利用して日系人をさらに疎外した。日系人は沿岸の州から「立ち退く」ように命じられたけれど、ほかの地域のほとんどの州は受け入れを拒否した。

 そこで、ローズヴェルトは1944年2月19日、大統領令9066号に署名した。この命令により、11万人以上の日系アメリカ人が、ほとんど一夜にして設置された「抑留所(法律上は強制収容所にあたる)」に強制的に送られた。家族は全員で移住させられた。土地は政府に取り上げられ、転売され、二度と返ってこなかった。多くの人々が全財産を失った。1944年、最高裁判所はコレマツ対アメリカ合衆国裁判において、日系アメリカ人が国の安全を脅かす存在ではないことを示すふたつの調査が明らかにされたが、ローズヴェルトの命令を必要なことだったと支持した。

 収容所は未乾燥の木材を使って建てた粗末なものだった。家族全員が、細長いバラック内の、ひとつかふたつの部屋で暮らしていた。トイレやシャワー、洗濯場、食堂は、数十家族が共同で使っていた。日系アメリカ人は、自分たちの政府によって監禁されていたのだ。

 やがて、政府は戦争を遂行するうえで、日系アメリカ人が貴重な存在だということに気づいた。ところが政府は、日系人を拘束するにあたり、国の安全を脅かす存在だと言ってそれを正当化していたので、釈放するには自分たちの過ちを認めなければならなかった。

 そこで、過ちを認める代わりに忠誠登録質問票をつくり、アメリカ社会に戻り、戦争遂行に加わるために釈放を認める日系人を決めることにした。このテストに合格すれば、釈放され、大学に戻ったり、農作物を収穫したり、人種隔離された部隊に入隊したりすることができる。テストに合格した男性の一部は、家族も収容所から解放されるまで入隊をこばみ、そうした男性は徴兵を拒否した罪で、何年も刑務所で過ごすことになった。混乱や、怒りなどの理由からテストに落ちた人々は、収容所に足止めされた。

 1944年12月、西部防衛司令部布告21号により排除令が解除され、日系アメリカ人は元のコミュニティに戻れることになった。翌日、政府は収容所を閉鎖する方針を発表した。こうして、日系アメリカ人が各地へ戻るための時間のかかる作業が始まり、1946年3月、最後の収容所が閉鎖された。