第一次世界大戦が始まった当初、アメリカは「ヨーロッパの戦争には関わらない」という中立の立場を取っていた。ところが、ドイツの潜水艦攻撃や、「ツィンメルマン電報」の発覚によって、国内の空気は一変する。なぜアメリカは中立を捨て、ついに参戦を決断したのか。第一次世界大戦の流れを変えた転換点を『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からのアメリカ史』から紹介する。

【第一次世界大戦】なぜ中立のアメリカは参戦したのか? 参戦を決定づけた「秘密電報」の衝撃Photo: Adobe Stock

近代アメリカと第一次世界大戦:1900年代~1930年代

 アメリカの歴史を、世界の歴史から切り離すことはできない。ジョージ=ワシントンはかつて、政治家たちに外国との深い関わりを避けるように説き、アメリカはしばらくその方針を保っていた。

 ところが20世紀初頭になると、そうはいかなくなった。海に隔てられていても、世界の動きから離れてはいられなくなったのだ。アメリカは世界に影響を与え、世界からも影響を受けるようになる。

第一次世界大戦

 第一次世界大戦は、当初「大戦」と呼ばれていた。この戦争がヨーロッパのいくつもの国で始まり、各国の植民地にも広がったとき、多くのアメリカ人は自分たちには関係のないことだと考えていた。

 しばらくのあいだは、確かにそうだった。戦争の原因はアメリカとはほとんど関係がなかった。けれども、この戦争により、アメリカは大きく変わることになる。

戦争に備えるヨーロッパの帝国

 ヨーロッパと世界各地で資源と領土をめぐる争いが激しくなるにつれ、ヨーロッパ列強は軍国主義へと傾いていった。常備軍を整え、新たな軍事技術に資金を投じることで、軍拡競争が進んだ。

 ヨーロッパの多くの国は同盟も結んでいた―つまり、陣営をつくり、どこかの国が戦争になれば、同盟国が守るという約束をしたのだ。

 こうした軍国主義政策と同盟は、世界中に帝国を築いたヨーロッパ列強の利益を守ることを目的としていた。ほかの国々は、これらの強大な帝国が所有する領土や植民地をうらやみ、自分たちも世界の取り分をもっと増やしたいと願い、帝国主義は特にアフリカへと広がった。

 同時に、ヨーロッパ各地では、こうした強大な帝国の支配下にあった人々のあいだでナショナリズムが高まった。独自の文化や言語を誇るこれらの人々は、独立を強く望んだ。ボスニアはオーストリア=ハンガリー帝国の支配から逃れたいと思っていた。大英帝国のアイルランド人、オスマン帝国(トルコ)のアルメニア人、ロシア帝国のポーランド人もまた、植民地支配から離れたいと願っていた。

 こうした緊張により、ヨーロッパの平和は、いつ紛争が起きてもおかしくないほどもろくなっていた。それはまさに、爆発寸前の火薬庫だった。

火花

 オーストリア=ハンガリー帝国の支配下で暮らしていた数百万人ものスラブ人は、セルビアの一部になることを望んでいた。1914年6月28日、セルビア人ナショナリストのガヴリロ=プリンチプが、サライェヴォフランツ=フェルディナント大公(オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者)とその妻ゾフィーを暗殺する。1カ月後の1914年7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告する。数週間のうちに、各国はそれぞれの側につき、2カ月のうちに戦争の形が決まった。

 1914年8月初頭を迎えるころには、ヨーロッパは全面戦争の様相をていしていた。次のリストは、ふたつの勢力と、各国の推定死亡者数である。

 戦争中に亡くなった人は、あわせて1600万人から3500万人と推定されている。歴史家たちは、その半数が民間人だったと見積もっている。ほかにも多くの国々が死者を出したけれど、序盤から参戦していたこれらの勢力ほど被害を出した国はほかにない。1917年になってから参戦したアメリカは、約11万7000人が命を落とした。

近代的で破壊的な戦争

 近代兵器は、かつてないほど速いペースで、はるかに多くの犠牲者を出した。新兵器には、機関銃、毒ガス、潜水艦、重装甲戦車、航空機などがあった。

 軍隊では、塹壕戦という新たな戦闘スタイルが使われた。兵士たちは待避壕に長いあいだとどまり、前線と前線のあいだには無人地帯があった。兵士たちはときどき銃撃し合ったけれど、どちらにもほとんど進展はなく、4年間にわたる膠着状態を引き起こした。

 農場や工場が動いていないので、飢えも大きな問題になっていた。しかも、食料供給が遮断されたため、困窮している国に外国からの食料が届かなくなった。

 そして、1918年には、特殊なインフルエンザがパンデミックを引き起こし、戦闘での死者よりもさらに多くの人々の命をうばった。世界人口全体の5パーセントもの人々が亡くなったこの病気は、すぐに変異し、軍隊の移動とともに世界中に広がった。

中立をやめるアメリカ

 ウィルソン大統領は、そしてアメリカ国民も、この破壊的な戦争にかかわりたくないと考えていた。実際、1916年には、ウィルソンは「彼はわれわれを戦争に導かなかった」というスローガンをかかげて再選を果たしている。では、アメリカはどうしてついに参戦することになったのだろう?

 戦争中、アメリカの産業界は両方の陣営と貿易をしていたけれど、イギリスがドイツに対して海上封鎖をおこなったことで、協商国との貿易が拡大することになった。アメリカの銀行は協商国に巨額の融資をしていたため、それを返済してもらうには、協商国の勝利を確実にしなければならなかった。

 ドイツはイギリスの海上封鎖に対抗するために、Uボート(ウンターゼーボート)と呼ばれる潜水艦で、協商国の船を攻撃するようになった。

 1915年5月7日、Uボートがイギリスのルシタニア号を撃沈し、100人以上のアメリカ人を含む1200人が死亡した。弾薬や違法な品物を積んでいたけれど、ルシタニア号は客船であり、民間人の死は非人道的だと思われた。アメリカでは反ドイツ感情が高まったものの、ウィルソンは中立を守る決意だった。

 また、ウィルソンは終戦後の交渉に加わることを望んでいた。彼はドイツに客船を攻撃しないように約束させ、これが繰り返されることになる。つまり、ドイツが船を沈没させるとアメリカが厳しく非難し、ドイツはそのたびに攻撃をやめると約束したのだった。ところが、1917年2月、ドイツは「無制限潜水艦作戦」を再開すると発表した。

 1カ月後、イギリスの諜報機関は、アルトゥール=ツィンメルマンというドイツ政府高官からの電報を傍受した。このツィンメルマン電報は、メキシコに対し、ドイツと同盟を結んでアメリカに対抗することを呼びかけるものだった。メキシコは誘いを断ったけれど、この電報はアメリカの新聞で公にされ、反ドイツ感情が爆発した。

 ツィンメルマン電報が公表されてまもない1917年3月、ロシア革命が始まった。皇帝ニコライ2世は退位を余儀なくされ、代わりに民主政府が樹立された。これにより、アメリカは抑圧的君主国に味方することなく、参戦できるようになったのだ。

 歴史家たちは、ウィルソン大統領は理想主義者で、終戦時の講和交渉に加わることを心から望んでいたと見ている。交渉のテーブルで発言権を得るには、参戦するしかなかった。1917年4月2日、ウィルソンは議会に宣戦布告を求めた。議会は数日の密議を経てこれを承認し、アメリカは参戦した。