AIがコードを書くのなら、プログラミングを学ぶ必要はもうないのではないか。その一方で、2040年には現場を担う人材が約260万人不足しうるという試算がある。ピーター・F・ドラッカーは1999年の『明日を支配するもの――21世紀のマネジメント革命』で、先進国が競争力を保つ唯一の道は、知識と手わざを併せもつ人材の教育訓練だと書いていた。「リスキリング」という言葉がいま向かっている方向と、27年前の指摘は逆を向いている。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

机に向かう人だけではなかった
知識労働者と聞いて思い浮かぶのは、机に向かってパソコンを操作する人だろう。ところが『明日を支配するもの』の第5章で、ドラッカーはその像を自ら訂正している。
本書が名づけるのは「テクノロジスト(高度技能者)」、すなわち知識労働と肉体労働の両方を行なう人たちである。病院の検査技師やレントゲン技師、歯科関係者、自動車の修理工。高度な理論知識を使いながら、同時に手を動かす仕事だ。
これまで、知識労働者は知識労働にのみ携わるかのように述べてきた。しかし実際には、きわめて多くの知識労働者が、知識労働と肉体労働の両方を行なう。そのような人たちを、とくにテクノロジスト(高度技能者)と呼ぶ。
――『明日を支配するもの』より
ドラッカーは彼らを19世紀と20世紀の熟練労働者の後継と位置づけ、先進国にとって唯一ともいうべき競争力要因だと書いている。知識労働者のなかで最も数が多く、しかも急速に増えつつある層でもある。
知識に国境はなくなった
なぜ唯一なのか。理由は単純で、純粋な知識には国境がないからである。
理論物理学、高等数学、経済学の知識については、もはや国境は存在しないも同然である。たとえばインドは、その貧しさにもかかわらず、世界最高水準の医者とコンピュータ・プログラマーを擁している。
――『明日を支配するもの』より
かつては、世界最高水準の大学をもつ国が最先端を走ることができた。19世紀のドイツがそうだった。だが純粋な知識労働者を抱えるだけでは、その位置に立てないと本書は言う。
肉体労働の側にも、もはや国境はないと本書は続ける。科学的管理法にもとづく訓練の手法を使えば、どの国でも一夜にして世界最先端と同じ水準の生産性に届くからだという。
頭脳だけでも、手わざだけでも差はつかない。だからドラッカーは、先進国が競争力を維持していくための唯一の道がテクノロジストの教育訓練であると言い切った。1999年、89歳のときの断定である。
余る440万人、足りない260万人
27年後のいま、知識の側の壁はさらに低くなった。AIがコードを書くのなら、プログラミングを学ぶ必要はもうないのではないか。そうした議論もある。当否は判定できないが、知識労働の一部が誰にでも手に入るものになっていく流れは、ドラッカーの想定より速いのかもしれない。
一方で、手を動かす側の人手は細っていく。経済産業省が2026年に公表した「2040年の就業構造推計(改訂版)」は、2040年に事務職が約440万人余る一方、生産工程や建設、サービス職などの現場人材が約260万人不足しうると試算した。全体の就業者数が大きく不足するという話ではなく、職種間のミスマッチとして示されている点には注意が要る。米国では移民制限が低賃金の肉体労働の供給を絞っているとの指摘もあり、こちらも需給のねじれを別の形で強めている可能性がある。
小学校卒の電話工に、理論を教えた
テクノロジストの教育訓練とは何か。本書は1920年代のAT&Tの例を引く。電話工事の苦情が大きなコスト要因になっていた同社は、5年をかけて原因を調べ、問題が工事の手順ではなく利用者の満足にあることを突き止めた。
そこで小学校卒が平均だった電話工に、電話や交換機、電話網の仕組みという理論的な知識を与えた。反復動作は科学的管理法で訓練し、仕事の質の定義そのものは電話工自身に委ねた。やがて彼らは、どこにどんな電話機が適するかを判断し、電話のセールスマンにもなったという。
本書はこの例から、条件を三つ引き出している。
●仕事は何かを問うこと
●仕事の質を、本人に担保させること
●彼らを知識労働者として扱うこと
三つめが、おそらく最も実行されていない。
一つの言葉が覆う二つの穴
ここに、いまの言葉づかいとのねじれがある。今日「リスキリング」といえば、知識のある事務系の人材がデジタルの技能を身につけることを指す。方向でいえば、事務からデジタルへ、である。ところがドラッカーが説いたテクノロジストの教育訓練は、これと逆向きの学び直しだった。肉体労働の現場に、理論知識を足していく方向である。
問題は、その学び直しを引き受ける場所である。アメリカには、理論知識と手の技能の双方をもつ人材を育てるため、1920年頃から各地にコミュニティ・カレッジ(主に公立の2年制大学)が設けられていた。本書は、日本の教育システムを名指しして書いている。
現在のところ、アメリカのコミュニティ・カレッジに相当するものは、世界中どこにも存在しない。日本の教育システムでさえ、肉体労働のための人たちと、知識労働のための人たちの二種類を生むにとどまっている。
――『明日を支配するもの』より
1999年の指摘である。27年たったいまも、「リスキリング」という言葉は主に事務からデジタルへの一方向で語られる。現場に理論を、という逆向きの学び直しは、同じ言葉の陰にほとんど隠れたままだ。
AIが知識労働の一部を代替し、頭脳だけの労働のコモディティ化がさらに進むのだとすれば、知識と手わざを併せもつテクノロジストの相対的な価値は、むしろ上がっていくのかもしれない。





