わたしたちの身体は「予期(expectation)」に大きな影響を受ける。生理食塩水を注射しても、それが鎮痛薬だと信じていれば、脳が先回りしてエンドルフィン(鎮痛作用のある神経化学物質)を産生し、実際に痛みが治まる。これがプラセボ効果だ。

抗うつ薬は本当に効くのか?プラセボ効果が突きつけた不都合な事実抗うつ薬を服用したときの改善は、薬そのものの作用だけでなく、「効くはずだ」という予期にも影響される(イメージ:ささみだいすき /PIXTA)

 それに対して、ワクチンに強い不安をもっているひとは、生理食塩水を注射しても、それがワクチンだと信じているとさまざまな副反応が生じ、ときにそれは痙攣(けいれん)や下半身の脱力などの深刻な症状になる。こちらはノセボ効果で、心因性の身体症状すなわち心身症と診断される。

【参考記事】
●「異常なし」なのになぜ身体は苦しむのか?心身症が“気のせい”ではない本当の理由

 このように書くと、「プラセボ効果はよいもので、ノセボ効果は悪いもの」と思うかもしれない。だが現実には、プラセボ効果が社会に混乱を引き起こすことがある。その代表的な例が、抗うつ薬SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)への評価の変遷だ。

「奇跡の薬」はほんとうにいわれているような効果があるのか

 1988年にアメリカの大手製薬会社イーライリリーが発売したプロザックは世界初のSSRIで、うつ病に対して劇的な効果があるとして「奇跡の薬」と呼ばれ、世界的な大ヒットになった。日本でも90年代に海外の製薬大手が女優を起用した「うつは心の風邪」キャンペーンを大々的に行なったことで、いまではちょっとした不調でも心療内科で抗うつ薬を処方されるのが当たり前になった。

 だが奇妙なことに、うつ病を薬で治療できるようになったにもかかわらず、抗うつ薬の大量処方とともに、世界中でうつ病に苦しむひとたちが急増している。だとしたら、「奇跡の薬」はほんとうにいわれているような効果があるのか。

 イギリスの心理学者アービング・カーシュは抗うつ薬の真の効果を知るために、3000人以上のうつ病患者を含む38件の臨床試験を分析した。1998年に発表されたその結果は、「抗うつ薬の効果の7割から8割はプラセボ効果で説明できる」という衝撃的なものだった。

 この報告はメディアなどで大きく取り上げられ、カーシュは研究の詳細とその後の反響を本にまとめた。それが『抗うつ薬は本当に効くのか』(石黒千秋訳/エクスナレッジ)だ。原題は“The Emperor’s New Drug; Exploding the Antidepressant Myth(皇帝の新しい薬 抗うつ薬の神話を暴く)”。

 抗うつ薬のプラセボ効果についての説明の前に強調しておかなければならないのは、「医師に相談することなく抗うつ薬の服用を中断しないこと」だ。

 カーシュが本書で述べているように、SSRIの服用を急にやめると、約20%のひとに禁断症状が現われる。

 抗うつ薬の禁断症状には、胃腸障害(腹部の痙攣痛、下痢、胃のむかつき、嘔吐)、流感様の症状、頭痛、睡眠障害、めまい、目のかすみ、無感覚、電気ショックを受けたような感覚、痙攣、手足の震えがある。また、急に中止すると、数時間のうちにうつ症状や不安が現われることがある。

 カーシュは、「抗うつ薬の効果の大半はプラセボだ」としつつも、抗うつ薬を服用して調子がよくなったと感じていて、副作用に悩まされていないのなら、服用を続けるのが最善だという。これは、「触らぬ神にたたりなし」と説明される。

 そのことを断ったうえで、カーシュの「発見」を見ていこう。それはある意味、ミステリーの謎解きのように興味深い。

抗うつ薬より2倍大きい? カーシュが算出したプラセボ効果

 抗うつ薬のプラセボ効果を調べるために、カーシュは被験者を医薬品(抗うつ薬)、心理療法、プラセボ、未治療の4群に分けた。その結果をまとめたのが下のグラフだ。

抗うつ薬は本当に効くのか?プラセボ効果が突きつけた不都合な事実
 

 改善度の大きさは、0.5なら中程度、0.8なら効果は大と考えられる。うつ病治療としてもっとも改善度が高かったのは抗うつ薬と心理療法で、両者の改善度はおよそ1.6で大きな差はない。注目すべきは、プラセボを投与された被験者にも相当な改善が見られることで、その効果は改善度1.2にも達する。それに対して、なんの治療も受けていないひとたちには、あまり改善は見られなかった。

 ここから、うつは自然に寛解することもあるが、その効果はあまり期待できないことがわかる。それに対して、(抗うつ薬だと説明されて)偽薬を服用した被験者には大きな改善が見られ、その効果は本物の抗うつ薬の75%にも及ぶ。そうなると、医薬品による治療効果は改善度全体の25%だけになる。

 これを全体の改善度で見れば、医薬品の改善度が1.6、プラセボが1.2なので、その差の0.4が抗うつ薬の科学的な効果だ。一方、未治療でも0.4の改善効果があるのだから、プラセボそのものの効果は(1.2の改善度から自然治癒の効果0.4を引いた)0.8だ。抗うつ薬の効果は0.4、プラセボの効果が0.8だから、「プラセボの効果は、医薬品の化学効果の2倍」になる。

 この研究を始める前は、カーシュは抗うつ薬におけるプラセボ効果がこれほど大きいとは予想していなかった。そこで、自分たちが間違っているのではないかと考え、データを再解析した。

 三環系抗うつ薬は1960年代から70年代にかけて一般的に用いられてきた古い世代の薬で、SSRIと同程度にうつ症状を改善したものの、その効果はやはり25%しかなかった。その後、タイプの異なる他の抗うつ薬を対象に研究が行なわれたが、結果は同じで、その効果は24~26%の幅に収まった。服用する薬の種類によって生じる副作用は異なるが、うつへの効果はどの薬でも変わらないのだ。

 なお、この結果から抗うつ薬よりも心理療法のほうが優れているということはできない。

 うつの治療法としてもっとも注目を集めているのは認知行動療法(CBT)だが、それ以外にも人間関係療法、短期力動精神療法、非指導的支援療法などさまざまな心理療法があり、いずれもうつに一定の効果があることがわかっている(効果のある症状などさまざまなちがいはある)。プラセボ効果は「予期」が生じればどこでも現われるので、心理療法のなかにも当然、プラセボ効果が含まれているのだ。