事務職の有効求人倍率は0.37倍、建設・採掘の職業は5.65倍――同じ国の、同じ月の数字である。ピーター・F・ドラッカーは『ネクスト・ソサエティ――歴史が見たことのない未来がはじまる』で、知識社会には上方への移動の自由と、高い代償があると書いた。学歴をめぐる議論が世代間で噛み合わない理由を、賃金統計とあわせて読み解いてみよう。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

ドラッカー 高い代償

事務職0.37倍、建設5.65倍

 厚生労働省の「一般職業紹介状況」によると、令和8年7月の事務従事者の有効求人倍率は0.37倍だった。求人1件に対して、2人から3人の求職者が並んでいる計算になる。

 同じ月、建設・採掘従事者は5.65倍、保安職業従事者は6.61倍である。こちらは求職者1人に5件も6件も求人がある。同じ国の同じ月の数字が、職業によってこれほど違う。

 ただし、この統計はハローワークを経由した求人と求職だけを集めたものであり、労働市場全体の需給をそのまま表すわけではない。パートタイムを除く常用労働者の数値であり、学歴別の集計でもない。事務職に就くのが大卒だけとも限らない。それでも、学校を出て事務の仕事に就く――戦後の日本が標準として語ってきたこの道筋が、入口の需給で細くなっていることは読み取れるのではないか。

 手がかりになる一冊がある。ドラッカーが24年前に書いた『ネクスト・ソサエティ』である。ただし彼が見ていたのは、今の賃金カーブの形ではない。知識社会という構造そのものだった。

学歴差は出口に現れる

 もう一つの統計を開くと、別の絵が出てくる。厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」(令和7年)で、男性の賃金を学歴別・年齢階級別に見た数字である。ここでいう賃金は月額の所定内給与額であり、賞与も残業代も含まない。

 20~24歳では、高校卒23.1万円に対して大学卒26.7万円。差は3万6000円ほどにすぎない。ところが55~59歳になると、高校卒36.7万円、大学卒55.6万円。差は18万9000円まで広がる。入口の差は出口で5倍以上に開く。

 同じデータでも、20代で切るか50代で切るかで、逆の印象になる。学歴による差は20代前半では小さく、年齢が上がった層ほど大きい――そうした構造が、今回の統計には現れている。ただしこれは今この瞬間の20代前半と50代後半を比べた数字であり、今の20代が55歳になったとき同じ曲線をたどるとは限らない。若い世代が感じていることと、親の世代が信じていることは、同じ統計の別の断面なのである。

上方への移動が開かれた社会

 本書でドラッカーは、知識社会をこう定義している。

知識社会は、上方への移動に制限がないという初めての社会である。知識は、相続も遺贈もできないところが他の生産手段と異なる。あらゆる者が自力で獲得しなければならない。誰もが無知の状態からスタートする。

――『ネクスト・ソサエティ』より

 土地や設備は受け継ぐことができるが、知識は受け継げない。誰もが無知から始め、学べば上に行ける。だからこの社会では、ある程度の成功があらゆる人間に期待されることになる、と本書には書かれている。かつての世代には信じられない考えだ、とも。

 ただしドラッカーは、そこで浮かれてはいない。チャンスの国とされたアメリカでさえ、実際の上方移動は信じられているほどではなく、経営幹部や専門職の子が経営幹部や専門職になっていた、と彼は書く。アメリカがヨーロッパと違っていたのは移動が容易だったことではなく、それが社会で促進され、祝福されていたことにあった、と。

報酬は後払い、代償は繰り返す

 ドラッカーは、移動の代償に筆を進める。

知識社会に特有の上方への移動は高い代償をともなう。それは競争にともなう心理的な圧力と精神的なストレスである。敗者がいるからこそ勝者がいる。

――『ネクスト・ソサエティ』より

 ドラッカーが代償と呼ぶのは、競争にともなう心理的な圧力と精神的なストレスである。受験のプレッシャーが勉強嫌いを生み、日本の美点である経済的な平等性を蝕み、金権主義までもたらす――本書はそこまで書いている。アメリカ、イギリス、フランスでも学校が競争の場になっている、とも。24年前の観察である。

 競争を抜けた側についても、ドラッカーは書いている。企業の管理職も、大学の教員も、医者も、40代、50代で燃えつきることになる、と。大学で教えていた彼は、自らの職業をその例から外していない。

 つまり代償は、受験期だけで払い終わるものではない。競争を勝ち抜いた先でも、形を変えて現れる。

 ここで構造が見えてくる。報酬は後払い、代償は繰り返す。

 賃金が年齢とともに開いていくという事実は、報酬が後払いであることを裏づけている。代償の側は、受験期で払い切って終わるとは限らない。

知識に上下はない、はずだった

 本書には、もう一つ、印象的な一節がある。

知識に上下はない。状況への関連の有無しかない。脳外科医は言語療法士よりも高給であって敬意を払われるかもしれないが、脳溢血患者のリハビリに成果をあげるのは言語療法士のほうである。

――『ネクスト・ソサエティ』より

 ドラッカーがこれを書いたのは、賃金の話としてではない。上下関係の中の一人ではなく、一人前の専門家として扱われたい――知識労働者のその望みを説明するためである。

 だが日本の賃金カーブが35年ほどかけて描いているのは、上下はないはずの知識に、年齢とともに差がついていく姿である。その序列がどこまで当然のものなのかは、問い直す余地が残るのかもしれない。

 いま起きているのは逆転ではない。入口では学歴による差がほとんど見えず、出口では残っている、という分裂である。若い世代と親の世代で風景が食い違うのは、どちらかが間違っているからではなく、同じ構造を別の断面から見ているからだろう。報酬は後から来る。だが代償は、その前にも後にも姿を変えて現れる。