たとえば新渡戸稲造の『修養』に代表される「出世などしなくてもいい、それより人としての人格を高めることの方が重要だ」と主張する自己啓発本の人気が高まったんです。となれば、ある意味ではこれもまた、「頑張れ」から「頑張るな」への転換だったと言っていい(編集部注/ここでいう「頑張るな」は、努力そのものを否定する意味ではなく、「出世や成功まで目指して頑張らなくてもいい」という意味。新渡戸稲造の修養思想は人格を磨くための努力自体は肯定している)。
『自己啓発本を1000冊読んでわかったこと』(尾崎俊介、集英社インターナショナル)
さらに昭和時代に関して言えば、高度経済成長期に松下幸之助の『道をひらく』のような「頑張れ本」が人気を博した後、相田みつをの『にんげんだもの』が1984年に出て、予想外のロングセラーとなります。これは「人間なんてしょせん愚かなものなのだし、成功しなくても、完璧でなくても、つまずいてもいいんだよ」というメッセージを伝える脱力系自己啓発詩集であり、バブル崩壊後の日本人をなぐさめる究極の「頑張るな本」になったことはまだ多くの人の記憶に残っているでしょう。
つまり日本では、「頑張れ」系の自己啓発本がもてはやされる時代と、「頑張るな」系の自己啓発本の人気が高まる時代が、振り子のように交互に繰り返されてきたんですね。
しかし、考えてみてください。「頑張れ」と「頑張るな」では、まるで正反対の主張です。その正反対の主張が、時代によって交互に支持されるとなると、どちらが本当に正しい主張なのか、わからなくなってくる。だからいつの時代でも、自助努力系自己啓発本には「愛好家」の立場と「アンチ」の立場があって、批判の応酬になってしまう。
そう、「努力は報われる」という、本来文句のつけようのないことを主張する自助努力系自己啓発本が、日本では何となくうさん臭いものとして受け止められていることには、こういう背景があったんです。







