ひろゆき氏ひろゆき氏 Photo:SANKEI

「頑張れば道は開ける」という本が支持されたかと思えば、次は「無理に頑張らなくてもいい」という本が読まれる――。自己啓発本の人気は、時代とともにまるで振り子のように揺れてきた。実はこの変化は、ここ数年だけの現象ではない。明治から現代までの出版史をたどると、日本人が求めてきた「頑張れ」と「頑張るな」のメッセージが、社会の変化とともに繰り返し入れ替わってきたことが見えてくる。※本稿は、アメリカ文学者の尾崎俊介『自己啓発本を1000冊読んでわかったこと』(集英社インターナショナル)の一部を抜粋・編集したものです。

日本とアメリカで異なる
自己啓発本の歴史的背景

 2004年まで、1万円札の顔が福沢諭吉、5000円札の顔は新渡戸稲造の組み合わせでしたが、日本人はそれぞれの財布の中に、近代日本の自己啓発思想史を留めていたのかもしれません。

 近代日本における自己啓発思想というのは……

・立身出世の夢(明治初期)
・立身と成功の分岐(明治後期)
・修養概念の定着(明治後期以降)

 という流れの中で形成されていったんです。そしてこの歴史的経緯が、「自己啓発本=頑張れ本」という日本人の固定観念を生み出すことにつながってしまった。

 日本人の手になる自己啓発本が、ともすると「立身出世、そして成功を目指して頑張れ、しかし出世が叶わなくても、成功しなくても、修養(編集部注/自らを律し、人格を高めること。ここでは、出世や成功を目標に努力するのではなく、努力そのものを通じて人格を磨く考え方を指す)として頑張るだけは頑張れ」という主張をするものになっている理由がここにあります。結局、どうであれ「頑張れ」と。

 無論、日本生まれの、すなわち「修養系」の自己啓発本であれば、「自己啓発本=頑張れ本」という解釈で構いません。たとえば松下幸之助の『道をひらく』を、修養的な意味で「頑張れ本」だと思って読んだとしても、まったく問題ない。問題ないどころか、むしろそう読むべきものだと思います。

 しかし、こうした歴史的背景があるため、日本人はアメリカの自己啓発本を読む時にも、無意識のうちにこの種の「修養フィルター」をかけてしまう。要するに、アメリカの自己啓発本も、日本の自己啓発本と同じように、何が何でも頑張るしかない、ということを言う本なのだろうと。だから、頑張りを是とする人にとってそれは愛すべきものであり、頑張った末に燃え尽きてしまった人からすれば、それは憎むべきものとなる。

ひろゆきの「頑張るな」が
燃え尽き寸前の人に刺さった

 2000年代から2010年代前半にかけ、日本は自助努力系自己啓発本の全盛期でした。当時の日本の社会状況を顧みると、バブル崩壊とともに終身雇用制も維持が難しくなってきて、もはや会社が社員を守ってくれる時代ではなくなっていた。そのせいもあって、「この時代を生き抜くためには、1人ひとりが自分の能力を高めるしかない」ということを訴える自助努力系自己啓発本が次々と世に出ていたんですね。

 本田健『ユダヤ人大富豪の教え』、樋口裕一『頭がいい人、悪い人の話し方』、竹内一郎『人は見た目が9割』、前田裕二『メモの魔力』、永松茂久『人は話し方が9割』などがその好例ですが、この系統の「頑張れ本」のきわめつきは、ホリエモンこと堀江貴文さんの『多動力』。