民族も言語も宗教も違う人々を抱えながら、なぜハプスブルク家は巨大な帝国を何百年も維持できたのか。その秘密は、強大な軍事力だけにあったわけではない。「同じ民族だから一つになる」という現代の国家観とは異なり、ハプスブルク家は地域ごとの違いを残し、ときに譲歩や妥協を重ねながら全体をまとめていた。だが19世紀、ナショナリズムの波がその仕組みを大きく揺さぶっていく。『地図で学ぶ「深読み」世界史』の著者が、ハプスブルク帝国の驚くほど現代的な統治の知恵と、その限界を読み解く。

「民族も宗教も違うのに、なぜ巨大帝国を維持できた?」→ハプスブルク家の統治法が意外すぎたPhoto: Adobe Stock

「同じ民族」ではなく「同じ君主」が国をまとめた

 ハプスブルク家のすごさは、巨大な領土を手に入れたことだけではない。むしろ注目すべきなのは、言語も民族も宗教も異なる人々を抱えながら、長いあいだ一つの政治体を維持したことである。

 ハプスブルク君主国には、ドイツ語を話す人々だけでなく、ハンガリー人、チェコ人、クロアチア人、ポーランド人、イタリア人など、さまざまな民族が暮らしていた。現代の国民国家の感覚から見ると、これほど異質な地域を一つにまとめるのは不自然に思えるかもしれない。しかしハプスブルク家の統治では、「同じ民族だから一つの国になる」という発想より、「同じ君主を戴くから一つの政治体に属する」という考え方の方が重要だった。

ナショナリズムの波に、ハプスブルク家はどう耐えたのか

 ところが19世紀に入ると、この仕組みが揺らぎ始める。フランス革命やナポレオン戦争を経て、ヨーロッパではナショナリズムが広がった。人々が「自分はどの王に属するか」より、「自分は何民族なのか」を強く意識するようになったのである。

 当然、ハプスブルク家にとっては大問題だった。多民族国家の内部で、それぞれの民族が自治や独立を要求すれば、帝国はばらばらになりかねない。それでもハプスブルクは、反乱を抑えたり、時には譲歩したりしながら、第一次世界大戦まで国家を存続させた。

 特に1867年には、ハンガリーとの妥協によってオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立する。これは、すべてを中央から一律に支配するのではなく、有力な民族に一定の自立性を認めながら全体を維持しようとする仕組みだった。

ハプスブルクは本当に「遅れた帝国」だったのか?

 多民族国家は「遅れた帝国」と見られることもある。しかし現代のヨーロッパが、多様な言語や文化を抱えながら統合を模索していることを考えると、ハプスブルクの経験は意外なほど現代的である。違う人々を、違うままどう共存させるか。その難題に何百年も向き合った王家だった。

 この経験は、国家のまとまりを「同じ民族であること」だけに求めない政治の難しさを教えてくれる。共通点が少ない人々を一つに保つには、軍事力だけでなく、交渉や制度上の妥協、地域ごとの特権を認める工夫も必要になる。ハプスブルク家は、民族国家とは別の形で巨大な政治体を維持しようとした。その成功と限界の両方が、後のヨーロッパを考える材料になっている。