何が「終わった」のかは自分でもすぐには説明がつかなかったが、最年少で名人位に就きながら、以後、13年を経ても永世名人の資格を得られずにいた長年のジレンマに終止符を打ったということだったのだろう。本音を言えば「心底ほっとした」という思いでもあった。

 21歳で初めて名人になった時、私は名人というものの重さを、まだ十分には知らなかった。26歳で中原先生から名人位を奪い返した時には、失ったものを取り戻す意味を知った。しかし、第48期で永世名人のチャンスを逃してから、すでに7年が過ぎていた。

 20代の充実期に取り損ねたものを、30代半ばになってもう一度取りに行く。そういう戦いでもあった。そして35歳で羽生さんから名人位を奪ったこの時、私は、名人位とは単なるタイトルではなく、将棋の歴史につながり、棋士人生の意味そのものが問われる地位なのだと改めて感じた。私にとって「名人とは何か」という問いを、もう1度深く心に刻み込んだ戦いだった。

将棋界だけのものではない
「名人」という言葉の歴史

『名人論』という題をつけてここまで書いてきた以上、最後にもう一度、「名人とは何か」という問いに立ち返っておきたい。将棋の名人とは何か。なぜ、この言葉だけがこれほど重い響きを持ち続けているのか。そして、この言葉は将棋界の中だけで完結するものなのか。そうしたことを、最後に少し整理したい。

 現在の将棋界には多くのタイトルがあり、それぞれに重要な意味と価値がある。その中で本記事があえて「名人」を軸にしているのは、名人という言葉の中に、将棋界の長い歴史と、その歴史の中で育ってきた価値観が濃く宿っていると感じるがゆえにテーマとして設定した。

 現代の各タイトルが将棋界の発展を支えてきたことは言うまでもない。その上でなお、「名人」という呼称には、勝負の結果だけでは尽くせない歴史の重みを感じることが多いのだ。

 では、言葉そのものとしての「名人」は、どこから来たのか。ここで整理しておく。