藤井聡太氏藤井聡太氏 Photo:SANKEI

江戸時代、将棋家元の将来を背負った2人の少年が、約2年間で57局もの真剣勝負を繰り広げた。その一人、10歳の伊藤印達について、十七世名人の谷川浩司は「藤井聡太さんに勝るとも劣らない」ほどの突出した才能があったのではないかと語る。300年以上前の棋譜から浮かび上がる、2人の天才少年の壮絶な戦いとは。※本稿は、十七世名人・棋士の谷川浩司『名人論 稀代の天才たちはいかに戦ったか』(PHP研究所)の一部を抜粋・編集したものです。

若くして将棋家元の看板を
背負った10代の少年たち

 それが大橋宗銀(元禄7年=1694年~正徳3年=1713年)、伊藤印達(元禄11年=1698年~正徳2年=1712年)の2人による「争い将棋」だ。

 2人は将来の名人位を賭けて、1709年から約2年間にわたり、57番に及ぶ真剣勝負を戦っている。その57番勝負が始まった時点で宗銀は14~15歳、印達は10~11歳だった。

 当時の江戸社会を考えると、この年齢で「家」を背負うことの重さは、現代人の想像を超えている。今の感覚でいえば、中学生と小学生の年齢である。しかし彼らは、単なる将棋好きの少年ではなかった。将棋家元の看板を支える存在であり、家の名誉、将来の俸禄、弟子たちの生活までをも背負う立場にあった。

 将棋は芸事であると同時に、幕府公認の家職でもあった。ゆえに家元の後継争いは、単なる勝負の世界に留まらず、政治性も帯びていた。誰が次代の名人になるかは、そのまま将棋界の主導権を誰が握るかという問題でもあったのである。

 当時の名人は4世名人の5代大橋宗桂(1636~1713年)。57番勝負が始まった時点で、その5代大橋宗桂は73歳になっていた。57番勝負が行われた背景には、その宗桂の後継者となりうる名人を選ぼうという将棋家元の意図があったのではないかと推測される。ただ当初の対局は、いわば「お好み対局」のような性格を持っていた。

 しかし、途中から次第に、次の名人を決める戦いという意味合いを帯びていったように見える。もっとも、本人たちがそれをどこまで意識していたかはわからない。ただ今振り返ると、10代の若者たちにあまりにも過酷な勝負を背負わせてしまったのではないかという思いがあり、胸が痛む。

互いの将棋を知り尽くし
技術戦から精神戦へ

 しかも、57番という数字が異様である。現代のタイトル戦でも、1人の相手とこれほど短期間に集中的に対局することはまずない。棋士というものは、対局を重ねれば重ねるほど、相手の癖、感覚、呼吸を知るようになる。序盤作戦は何を好むか。苦しくなった時にどのように粘るか。優勢になった時に一気に決めにくるのか。そうしたものが次第に見えてくる。

 宗銀と印達は、おそらく互いの将棋を知り尽くしていた。だからこそ、対局は単なる技術戦ではなく、精神戦へと変貌していったに違いない。相手に勝ちたいという思いと同時に、相手を理解してしまう苦しさも生まれたはずだ。これは長期戦を経験した棋士だけが知る独特の感覚である。

 江戸時代に最年少で名人に就位したのは、7世名人の3代目伊藤宗看だが、当時は満21~22歳である。この2人の場合も、どちらかが57番勝負後に名人に就位してもおかしくない。