「名画だから素晴らしい」という前提を一度手放してみる。すると、見慣れたはずの1枚の絵が、まったく新しい表情を見せ始めます。『「いまを生きる力」を取り戻す 感性の教室』の著者・末永幸歩氏とお届けする今回のテーマは、《真珠の耳飾りの少女》に隠された数々の「違和感」。フェルメールが仕掛けた光と影の実験を紐解きながら、自分の目で感じ、自由に問いを立てるアウトプット鑑賞の醍醐味を味わってみませんか。(聞き手/ダイヤモンド社・森遥香)

真珠の耳飾りの少女©︎Mauritshuis, The Hague

名画という先入観を捨てて鑑賞する

森遥香(以下、森):大阪・中之島美術館の「フェルメール 真珠の耳飾りの少女展」で大注目を集めた名画、《真珠の耳飾りの少女》を題材に、本書『感性の教室』の核である「アウトプット鑑賞」を一緒に行ってみたいと思います。

末永幸歩(以下、末永):いいですね。「名画だから素晴らしい」という前提を一度横に置いて、目の前の絵から何が見えるか、お互いに自由に気づいたことを言い合ってみましょう。

森:まず第一印象ですが、肌がすごく白くて綺麗ですね。唇に濡れたような艶があって、ターバンの青と黄色がすごく鮮やかです。でも、よく見ると背景が真っ黒ですし、眉毛がほとんどありません。そして、真珠の耳飾りが思いのほか巨大だなと感じました。

末永:そうですね! こうやって、声に出したり紙に書き出したりして「アウトプット」することで、作品をじっくりと見ることができます。

たとえば「真珠が大きい」「眉毛がない」というのは、じっくり見ないと案外通り過ぎてしまうポイントです。特に眉毛は、「人間の顔には眉毛があるはずだ」という知識のせいで、目の前に描かれていないことすら見落としがちなんです。

森:確かに、学校の教科書をはじめ、何度も見ているはずの絵なのに「眉毛がない」ことにはいままで気づきませんでした。

「本当に真珠か?」「本当に少女か?」と疑ってみる

末永:このように自分が感じたことや気づいたことをアウトプットするだけでも鑑賞体験は随分と深まりますが、ここからがアウトプット鑑賞の醍醐味です。自分が今出した気づきや、この作品の前提に対して、「本当に、そうかなあ?」とあえて疑いを挟んでみます。

森:「本当に、そうかなあ?」ですね。……そう考えると、この耳飾り、本当に真珠でしょうか? こんなに大きかったら耳たぶが垂れてしまいますし、色も真っ白というより、銀色。金属、ガラスの玉のように光を反射して光っているように見えます。

末永:なるほど。真珠にしては大きすぎますし、質感が金属的ですよね。実はこの《真珠の耳飾りの少女》という題名自体、フェルメール本人がつけたものではなく、後世の人が鑑賞の便宜上つけたものなんです。

題名に縛られると、「これは真珠だ」と思い込んでしまいますが、疑ってみると全く違うものに見えてきますね。

森:タイトルに惑わされていたんですね! では、「少女」というのも本当でしょうか?

末永:それも面白い問いですね。ターバンで髪の毛が完全に隠されていて、眉毛もありません。身体のラインも分厚い衣装で覆われているので、女性らしさを決定づける身体的な特徴が意外と少ないんです。

森:本当ですね。「少女」という先入観を外してみると、若い男性のようにも見えますし、30代くらいの落ち着いた人物のようにも見えてきます。

末永:そうなんです。フェルメールが活躍した17世紀のオランダでは、特定の個人の肖像画ではなく、画家が人物の表情や光の当たり方を実験的に描く「トローニー」というジャンルが流行っていました。

この作品もトローニーの一種とされており、実在の誰かをそっくりそのまま描いたわけではありません。

森:架空の人物だからこそ、「少女なのか男性なのか」「真珠なのか金属なのか」などという自由な想像の余地が残されているわけですね。

末永:知識的な鑑賞がある一方で、「自分なりのものの見方」で作品を感じる自由な鑑賞の面白さがあります。

自分自身が作品から感じたことに目を向け、さらに「本当にそうかなあ?」と自分の答えの前提にも揺さぶりをかける。それによって、1枚の絵からも様々な問いが浮かび上がってきます。