この四半世紀、衰退の一途をたどってきたゼネラル・モーターズ(GM)に転機が訪れた。労働組合とコスト削減で合意。北米事業の抜本的テコ入れが可能になったためだ。ただ、サブプライム問題で金融関連会社の収益が悪化するなど、経営危機の恐れはなお強い。今回の転機は文字どおり復活への最後のチャンスである。
今年11月29日、米ビッグスリーのお膝元、ミシガン州デトロイト市内で、ある名物経営者が82年の生涯を閉じた。
彼の名はロジャー・スミス。「強いアメリカ復活」を掲げたレーガン政権が誕生した1981年に会長に就任し、以来1990年に退くまで10年の長きにわたりGM帝国に君臨した経営者である。1983年に、当時すでに宿命のライバルにのし上がっていたトヨタ自動車との合弁工場設立(カリフォルニア州)に踏み切った人物といえば、思い出す読者諸賢も多いだろう。
じつは米国では、今日のGM不振の出発点を、このスミス元会長の時代に求める識者や当事者が多い。1980年代といえば、GM車の品質問題や同社の生産性低下が深刻化するなかで、日本車メーカーの躍進が加速し、やがて日米自動車摩擦に発展していった時代だ。
スミス元会長は当時、トヨタとの合弁工場のほか、小型車「サターン」を立ち上げるなど、GMの弱点を補おうと積極的に仕掛けた。だが、その動きはどこか一貫性を欠いていた。“カイゼン”の要諦に接したにもかかわらず、その後力を入れたのは工場の自動化。ロボットのみの未来工場という遠大な構想すら描き、実際にその夢に数兆円に上る資金をつぎ込んだりもした。
その一方で財務畑出身者らしく経費管理には厳格で、それゆえなのか、新車開発にカネを惜しみ、各販売網に外見の似たクルマを押し込むことが多かった。労使関係も悪化し、1989年には、GM城下町出身のマイケル・ムーア監督がドキュメンタリー映画「ロジャー・アンド・ミー」で痛烈な批判を展開した。実際、本社と現場との乖離は80年代に加速したといわれる。
未来工場やサターンを指して、時代の先を読んでいたと評価する声もある。だが、経営は結果がすべてだ。GMの米国市場シェアがスミス元会長時代に10%近く転落したことが辛口の批評の根拠だ。
現在会長職にあるリチャード・ワゴナー氏は、スミス後の混乱の収拾に当たってきた第2世代経営者といったところだろう。ロジャー・スミス氏の意を受けた後継者は2年後に役員会のクーデターで追放され、その結果誕生したジョン・スミス会長は同姓の権力者が残した問題の後始末に追われた。具体的には、品質や生産性の改善、過去の栄光にしがみつく驕りの払拭、さらにいえば、魅力的なクルマづくりができる体制の整備だった。その流れを、腹心のワゴナー氏が2000年に引き継いだ。