日があるうちは野良仕事に精を出し、夜はマイホームである古びた農家で雑魚寝。日曜夜にはどっさりの野菜や花、こどもたちとネコを積んで東京に戻り、また平日頑張って働くというライフスタイルは、今年で8年目になります。

 自分たちで管理するには手に余る、8700坪という広大な敷地。過半は山林で、その山にへばりつく農地があり、川あり、滝あり、原野あり。こどもたちにはこどもたちのやりたいことがあり、わたしにはわたしのやりたいことがあり、それぞれがこの場所で自分の週末を思い思いにつくっています。

 もしこの家がなかったら、わたしたち家族はどんな日々、どんな人生を送っているだろうかと、ふと考えても、なかなかうまく思い描けません。しかしながら不思議なことに、東京にしばらくいると、その田舎暮らしの感覚はすぐに遠のいてしまいます。日常は忙しく、駆け足で過ぎていく。その流れに身を任せてシームレスな暮らし方をする方が、自然といえば自然なのかもしれないとさえ思えてきます。

 そんなとき、二地域を往復するこの暮らしは、流れに身を任せているものではなく、「意識的に」都市生活を遮断し、田舎をインサートしているのだとあらためて気づきます。都市生活の中にい続けると、面白いほど勝手にどんどん忙しくなる。仕事でしょ、こどもの用事でしょ、友達付き合いでしょ、誘われたイベントでしょ、あとは次から次へと雑務全般……あれもこれもいっぱーい! スケジュール帳はいつの間にかびっしり埋まっていきます。

 忙しくなっちゃうのか、自分が忙しくしているのかも分からぬまま、それらをこなしながら過ぎていく日々。満タンのスケジュール帳の中を高速回遊魚のように泳ぎ続けているときはなかなかの充実感を感じますが、そうして生き散らかす中で、ぽろぽろと見落とし感じ落とすもの、知らないうちに肩の上に積もる疲労やなにかがあるのもまた、一方の事実です。

 それに気づくのは、暮らしの場所が変わり、時間の流れが変わり、平日の暮らしから引きずってきた心のざわつきを強制終了するときです。先週ぶりに帰ってきた古びた農家の畳にドタッと寝そべり、スケジュール帳に書き込まないような予定──畑の世話をしたり、野草を摘んだり、草を刈ったり、そのへんをぶらぶら歩いたりすること──についてぼんやり考える中で、わたし、止まっても死なないじゃん、高速回遊魚じゃないじゃん、と思いながら、徐々に生きものとしての自分自身を取り戻していきます。

 そんなリセットを週末ごとに定期的に行うライフスタイルが、わたしはわりと気に入っているわけですが、まわりからは「大変ですね!」「よく続くね!」とまるでキツいノルマのような受け止められ方をするのが面白いところです。

 まあ実のところ東京を出発する瞬間は疲れていて面倒くさいな、と思ったりもしますが、えいやっと医者に行くような感覚で車を走らせ、一時間半後に圧倒的な自然の豊かさに身をうずめると、今度は面倒くさかったことを忘れて「これだこれだ」と思う。その繰り返しで7年たち、今のところギブアップの兆しは見られません。それどころか、移動の面倒くささはほぼ気にならなくなり、週末の待ち遠しさはいっそう募るようになっています。