過去に対する意味付けが
我々を縛る

神保 あなたの不幸はあなた自身が選んだとすれば、それを変えるにはどうすればいいかですが、『嫌われる勇気』では「交換ではなく更新」ということが書いてあります。これはどういう意味でしょう? 不幸の問題とどう関わってくるんですか?

「自分は変わりたい」と言う人が、<br />実は「変わらない」と決心をしているのはなぜか神保哲生(じんぼう・てつお)
ビデオジャーナリスト/ビデオニュース・ドットコム代表。1961年東京生まれ。コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了。AP通信記者を経て93年に独立。99年11月、日本初のニュース専門インターネット放送局ビデオニュース・ドットコムを設立。著書に『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか?』『ビデオジャーナリズム―カメラを持って世界に飛び出そう』『ツバル-地球温暖化に沈む国』『地雷リポート』、訳書に『食の終焉』などがある。ビデオジャーナリスト神保哲生のブログ

岸見 人は全く突如として別人格にはなれません。たとえば、消極的な人が一夜にして脳天気な積極的な人になるのは難しいでしょう。ウィンドウズを使っていた人が今すぐMacに変えるのも難しいわけですが、OSのバージョンアップならできますよね。そういう変化ならあり得ます。私が全くこれまでの私でなくなるわけじゃないけれど、中身を変えてしまうというか、自分についての意味付けを変える、あるいは世界に対する意味付けを変えることはできます。私は私なんだけれど、それまでとは異なる世界に住み、全く違う自分を見つけ出す、更新とはそういう意味です。

神保 要するに、過去に起きたことは実際には今の自分と関係ないんだけど、それに自分がどういう意味を与えるかで縛られている、と。本によれば、原因論と目的論という言葉が関係しているようですが、そのあたりも説明をお願いします。

宮台 これはアリストテレス的な話ですね。

岸見 ではアリストテレスで説明しましょうか。アリストテレスは事物が生成するためにはいくつかの原因が必要だと説いています。たとえば彫像をつくることを考えてみましょう。まず大理石とか粘土などの素材がなければ彫像はできません。これを「素材因(質量因)」と言います。次に彫刻を彫る彫刻家がいないといけません。これは「作用因」と言います。さらに、彫刻家の頭のなかにどんな像を彫ろうかというイメージが必要です。これは「形相因」と言います。ではその3つがあれば彫刻はできるかというとそれだけでは無理です。何のためにこの彫刻をつくるのかという「目的因」がなければなりません。像をつくって飾り物にするとか、売ってお金儲けをするとか、そうした目的がなければ絶対に彫刻はできないのです。
 プラトンも師のソクラテスに関して似たことを言っています。ソクラテスはご存知のとおり死刑になります。あれもひどい話ですよね。若者を扇動して害悪を与えたということで処刑されるのです。で、彼は獄中にずっと留まっているのですが、当時の慣習ではお金さえ出せばいくらでも脱獄できました。でも彼は頑としてそれを拒否したのです。私が今ここに座っていることの原因は、たとえば筋肉や腱の仕組みから説明できるけれど、私がここに留まっていることを善しとしている(先ほどの善の話です)から、ここに留まるのだ、と。もし脱獄することが自分にとってためになる、つまり善であると判断するならたちどころに外国に逃げているだろう、と。この後者の原因をアドラーは目的と呼びます。目的があればこそ人は動き出すのだ、と。だから周りの原因だけをいくら詳細に論じても人間の行動の意味を理解することはできないというわけです。