人は自分にとって
都合が良い過去をつくる
神保 過去の経験のなかには、明らかに客観的な事実というのがありますよね。たとえば犬に噛まれた事実というのは変わりようがない。しかしそのことの意味をどう与えるかで、すべてが変わるということなのでしょうか?
岸見 同じように噛まれたからといって、皆が同じようにはならないし同じような解釈はしないですよね。痛いことに変わりはないかもしれない。けれど今から過去を思い出したって、痛みは今はないじゃないですか。過去の痛みは今の痛みじゃないのです。でも痛かったと思いたい人と、そんなに痛くなかったと思いたい人は出てくるかもしれない。ただ、より大事なことは、私を助けてくれた人がいたということです。それを思い出したというのは、もはや過去が変わったと言ってもいいくらいだと私は思います。
神保 やはり過去の経験に与える意味によって、過去自体が変わってしまうと。
岸見 そうなんです。ただ私は最近、本当は客観的事実なんてないのではないかとちょっと思っていまして(笑)。私の父が認知症になって長く介護をしたのですが、二人で話しているなかで、私が過去にこんなことがあったと言うと、父はそんなことはなかったと言うわけです。この場合、その出来事が本当にあったかどうか証明できるかというと、すごく微妙な問題だと思います。複数の人が証言していればいいですが、二人しか知らないことで片方がそんなことはなかったと言えばわからないですよね。父に殴られたという話を『嫌われる勇気』にも書きましたが、それさえ本当かどうか今となってはわかりません。
神保 そのように先生が勝手に思い込んでいるのかもしれないと。
岸見 そうです。父との関係が悪くなって、看病していたときも悪くて、だから父との過去の記憶は無数にあるはずなのに、関係が悪かった事例を引っ張り出しているだけではないかと。
神保 そういうのは実際の記憶にも影響してしまうんですか? 先ほどの犬に噛まれた後のことを思い出せなかった例もそうですが、世界観が変わったことで記憶の中身自体も変わるということですか?
岸見 そうですね。何を思い出すか、何を忘れるかということは、まったく無原則ではないはずです。それは大脳の説明だけでは済まないことでしょう。私の認知症の父を見てもわかるのですが、意味があることは覚えているけれど、思い出したくないことは忘れるのです。
宮台 社会心理学には「認知的整合性理論」と呼ばれる理論系列があり、ハイダーの認知的バランス理論やフェスティンガーの認知的不協和理論が有名です。これは、人はなぜピアプレッシャー(仲間からの圧力)に負けるのかを説明する際にも使えますが、何を記憶として思い出せるのかというときにも使えます。
例えば、父親が東電の社員であるような息子や娘は、原発災害による放射能被害を小さく見積もりたがります。つまり、複数の認知的要素が価値的に整合するように、認知を歪めたり、記憶から外す傾向が、人間にはあります。その結果、現在の認知的フレームに整合しないものは、思い出しにくくなります。
神保 思い出しにくいってことは、なんか引き出しの順番みたいなものがあるってことですかね?
岸見 いや、もっと唐突なものですね。
神保 でも忘れてしまうわけではないんですよね。
宮台 心のどこかにはあります。岸見先生の犬の話は、中国の言い方では「人間万事塞翁が馬」、日本の言い方では「終わりよければすべてよし」に関係します。ところが「どこが終わりなのか」を主観が決めています。噛まれた話で終わったらバッドエンド、おじさんが助けてくれた話で終わったらハッピーエンド。
でも、これは脳がどこまで思い出すかをランダムに決めているのではありません。自分がどんな現在的リアリティを生きているかによって、思い出のストーリーの終わりをどこに設定するのかが変わるのです。変わる理由は、脳に認知的整合化を行う機能があるからです。脳の機能に注目する必要があります。
神保 それは先ほどの話にもあったように、そのほうが自分にとって都合が良いから、そのようにつくっているということなんですね。