初公判のために仙台地方裁判所に入廷する大川小児童遺族原告団(2014年5月19日)
Photo by Yoriko Kato

 学校管理下にあった児童74人、教職員10人が、東日本大震災の津波の犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校。この惨事を巡り、児童の遺族が「もし、先生がいなかったら、児童は死ぬことはなかった。明らかな人災である」として、県と市を相手取り、懲罰的慰謝料など総額23億円の損害賠償を求めた国賠訴訟の初公判が5月19日、仙台地裁(高宮健二裁判長)で開かれた。

宮城県と石巻市は「遺族と争う姿勢」明らかに

 対応が注目されていた宮城県の村井嘉浩知事と石巻市の亀山紘市長は、「教職員が津波を予見できなかったのはやむを得ないことだった」などという答弁書を提出し、遺族と争う姿勢を明らかにした。

児童遺族原告団長の今野浩行さん(右)も初公判で意見陳述を行った。記者会見で「印象としては、時間が足りなかった。何時間でも話せる」(2014年5月19日) Photo by Yoriko Kato

 この日、原告側は、子どもたちが校庭に縛り付けられていた日時にあたる、来年3月11日午後2時からの現場検証と、唯一学校から生還したA教諭への早期の証人尋問を申請した。

 訴えを起こしたのは、いまだに行方不明のままの子どもも含め、大川小で津波の被害を回避できずに亡くなった23人の児童の19家族29人(夫婦10、父親のみ9)。原告席には、そのうち20人の遺族が着席した。

 震災発生当時、大川小学校では子どもたちを校庭で待機させ続け、川沿いの堤防に向かって移動を始めたのは、地震が起きてから50分近くも経ってからだった。

 その間、子どもを引き取りに来た保護者やラジオが大津波警報を伝え、防災無線のサイレンが鳴り、広報車が高台への避難を呼びかけている。しかし、学校側は、すぐ近くの裏山に登ったり、スクールバスを使ったりすることもなく、子どもたちを1メートルも上に避難させることができないまま、津波に巻き込まれた。

遺族7人が意見陳述
「先生の言葉に騙されて犠牲になった」

 この日は、原告の遺族のうち4組7人が、意見陳述した。

 当時小学6年生だった堅登君を亡くし、当時小学4年生だった巴那(はな)さんが行方不明になっている鈴木実穂さんは、こう訴えた。

「私は震災後、娘を探すために17年間勤務していた仕事を辞めました。“お母さん、ここにいるの。探して”と、娘に言われているようで、現場を1日も離れることができませんでした。私も巴那を早く見つけてお化粧をしてあげたい、ピアノの発表会で着る予定だったドレスも着せてあげたい。明日こそ、明日こそ見つかる、見つける。そう自分を奮い立たせました。捜索現場の海や川を目の前にし、子どもたちと同じように苦しい思いをして死ねたら本望だと、母と何度、命を絶とうとしたことか。

 私には兄弟がいませんので、私の両親はもう孫と呼べる人がいなくなってしまいました。“おじいさん”“おばあさん”と呼んでくれる人はもういないのです。そんな両親が孫たちの墓前に頻繁に通い、墓石を一生懸命磨いている姿を見ていて、一生の親不孝をしてしまったと、申し訳なく思っています。私たち夫婦も、かけがえのない子どもたちを喪い、もう二度と“お父さん”“お母さん”と呼ばれることはありません。

 子どもたちは死の直前まで助けてもらえると信じていたはずです。子どもたちは先生方の言うことを聞いて、ひたすら待っていただけなのです。今回、義務教育の学校管理下において、たくさんの生きたかった命が奪われました。未曾有の災害とか、想定外の津波という理由は通用しません。石巻市には法的責任を認め、考えを改めて頂きたいと思います。

 子どもたちはあの日、娘は大好きな学校へと元気に家を出ました。娘は何も悪いことはしていません。3年経過した今となっては、お化粧してあげることもドレスを着せてあげることも、もう叶いません。このまま誰も悪くない、何事もなかったでは済まされません。

 私たち行方不明児童遺族は、震災の日から一歩も前へは進んでいません。震災前のあの日々を返してください。娘を返してください」