この8月9日、米ミズーリ州で18歳の黒人少年が警官に射殺された。彼は武器など持っていなかった。両手を挙げていたのに撃たれたという目撃証言もある。しかし警察は過ちを認めず、「黒人に対する差別だ」と反発するデモ隊と警官隊との衝突が続いている。

 2013年に米南部サンフォードの住宅街で、17歳の黒人少年が買いもの帰りに街の自警団団長に射殺された。動きが不審だったとの理由だけで。しかし裁判では自警団団長の正当防衛が認められて無罪判決が下された。ちなみにこのときも少年は武器など持っていない。

 1992年にはルイジアナ州で、留学していた日本人高校生がハロウィンのパーティに出かけて射殺され、日本国内でも大きなニュースになった。射殺された理由は、訪問する家を間違えて、さらにフリーズ(動くな)の意味がわからなかったから。書くまでもないが日本人高校生は武器など所持していない。しかしこれも加害者は無罪になっている。

 銃社会アメリカでは、正当防衛の概念がとても広い。現在30州で適用されている正当防衛法では、生命の危険を感じたならば、(それが衝突を回避できる場合だったとしても)武器を使用することが許されている。つまり身の危険を感じたというだけで相手を殺害することが、社会の合意として認められていることになる。

自衛の意識は簡単に肥大する

 自衛の意識は簡単に肥大する。解釈次第でどうにでもなる。かつて日本が戦争の大義にしたのは、欧米列強からのアジアの解放だ。ナチスドイツでさえ、最初の侵略であるポーランドへの侵攻を、祖国防衛のためと見なしていた。ユダヤ人虐殺はゲルマン民族を守るため。ベトナム戦争に介入するときアメリカは、共産主義の脅威から自由主義社会を守るためと宣言した。アメリカ同時多発テロを行ったアルカイダは、アラブ世界を欧米から守るためと犯行後に声明を発表した。そしてブッシュ政権のイラク侵攻も、大量破壊兵器を持つテロリストとアルカイダから世界の平和を守ることが大義だった。

 人の自衛意識はこれほどに強い。DNAに刷り込まれた本能なのだから、これを中和することは不可能だ。でも手段を抑制することはできる。武器を持っていては過剰防衛になりやすい。ならば武器を捨てよう。この国は70年前にそう決意した。ご近所はほとんど銃を持っている。だからこそ我が家は銃を捨てる。きっといつかはご近所も銃を捨てる。怖いけれどその先陣となる。だって現実には、誤射や乱射や過剰防衛のほうが、銃で脅されることよりはるかに多いのだから。