転機と決断

 1878年、ウルワースに娘が生まれ、母が亡くなった。この年は小売業の世界が激変した年でもあった。中西部の小売店に「5セントテーブル」という新しい戦術が現れたのだ。過剰に抱え込んでしまった商品を小売店がわずか5セントにまで値下げし、それをテーブルに並べたものだ。顧客はこの安値につられて来店し、ついでに正価の商品もつい買ってしまう。

 ムーアはニューヨーク市に出張し、5セントで売れる商品を100ドル分仕入れてきた。それをムーア&スミスの店で販売する。ウルワースは店のカウンターを工夫し、仕入れてきた商品を1日で売り切ってしまった。

 ムーアから供給される品物を仕入れ、ウルワースはニューヨーク州ウティカに自分の店「グレート・ファイブセントストア」を開いた。この店は321ドル相当の5セント商品を用意して、1879年2月のある土曜日の夕方に開店している。初めて売れた商品は「石炭シャベル」だった。

 ところが、この店は失敗で、すぐに閉店に追い込まれる。これにくじけることなく、ウルワースはもう1軒の店を、同じ年の6月、ペンシルベニア州ランカスターに開店させた。今度は、5セントと10セントの商品を販売した。

 このランカスターの店舗は成功だった。1880年11月、2番目の店をペンシルベニア州スクラントンにつくる。この店も成功し、ウルワースはひたすら前進を続けた。

 ウルワースはその帝国の拡大を図るために家族を動員した。1895年には、店舗数が28になっており、そのなかには以前のボス、ウィリアム・ムーアの店もあった。売上高は100万ドルを突破していた。驚異的なスピードで成長を続け、1900年には店舗数が35、1908年は189、そして1911年には600になっていた。1918年1月、1000軒目の店舗がニューヨーク市の五番街に誕生した。

 ウルワースが1人で始めた事業はグローバルな企業へと急速に成長していた。

 1905年、事業化の負担を1人で負いきれなくなり、F・W・ウルワース社を設立し、エグゼクティブと従業員に対して5万株を発行した。

 会社のオフィスは当初、スチュワートビルの中でニューヨーク市のシティホールパークを見下ろす位置にあった。そして1913年4月には、当時最も高い摩天楼、ウルワースビルに移転している。ウルワースのオフィスは24階にあった。その広さは約9メートル四方あり、そのデザインはナポレオンの有名な皇帝の執務室を基本にし、その部屋にあった時計やそのほかの品物が取り入れられていた。

 1916年、F・W・ウルワース社の店舗の総来店者数は7億人を超え、売上高は8700万ドルを突破していた。人口8000人以上のアメリカの町には例外なくウルワースの店があった。