前回は、米国海兵隊が生み出した「水陸両用作戦」が、太平洋戦域で日本軍を追い詰めていく様子を描いた。今回は、ノルマンディー上陸戦に至るまでに、欧州戦域において実行された初めての上陸作戦での手痛い失敗とノルマンディー上陸作戦以前に行われた2度の上陸経験を取り上げたい。

ディエップ急襲
「失敗の教訓」と2度の上陸戦

 太平洋戦域ではアメリカの海軍、空軍、海兵隊が一体的に運用されることによって日本軍に勝利したが、欧州戦域では英米を中心とした多国籍の連合軍によって戦われた点が決定的に異なる。米国と英国は同じ英語を話しながらも文化が異なる上に、しかもそれぞれの陸海空3軍が協同して作戦を遂行するのは、異文化コミュニケーションの極みとでもいう状況で、強力なリーダーシップと周到な準備抜きには実現が不可能だった。

軍事技術・戦術におけるイノベーション【3】<br />水陸両用作戦〈後編〉一橋大学名誉教授 野中郁次郎

 太平洋戦域では、日米開戦から半年後のミッドウェイ海戦(1942年6月)で、早くも米国側が優位に立ち、反攻のきっかけを得ていた。同じころ、欧州戦域では、北アフリカで英軍と独伊枢軸軍が戦っており、ロンメル将軍率いるドイツアフリカ軍団の活躍もあって、英国側の苦戦が続いていた。

 この年の8月、欧州反攻のため最初の上陸戦が行われた。英軍とカナダ軍によるフランスのディエップ急襲(ジュビリー作戦)である。ここはノルマン・コンクエストの出発地だが、ドイツ川の守りが手薄なことに英軍が気づき、奇襲攻撃をかける作戦を立てたのだ。チャーチルは作戦の成功を疑問視していたが、参謀総長のアラン・ブルックはこの作戦を、ノルマンディー上陸作戦を成功させるための実践訓練と位置づけて説得したのである。

 カナダ軍約5000名、英軍約1000名と米軍約40名を投じたが、その半分以下しか無事帰還できず、上陸用舟艇や爆撃機も多数失うこととなり、この作戦は散々な結果に終わった。

 それでも、この手痛い失敗から得られた教訓はたくさんあった。『史上最大の決断』で事前になすべき6つのこととしてまとめてあるように、上陸前の制空権の確保と艦砲射撃が不可欠であることや、司令官専用艦を用意し連携を取ること、海岸部や上陸後に有効な新たな戦車や装置の開発、補給手段の確保など、その後の水陸両用作戦で考慮された教訓ばかりである。

 この失敗に学び、欧州で第2戦線を開くために連合軍として最初に行った上陸戦が、1942年11月の仏領北アフリカに対する「トーチ作戦」だった。