満州事変から3ヵ月後の昭和6年(1931年)12月11日、井上デフレを推し進めていた民政党の若槻内閣が閣内不一致で総辞職。当時の政党政治における憲政の常道に従って組閣の大命を受けたのは、政友会の犬飼毅であった。

 犬養は、その足で高橋是清を訪れて「井上の金解禁の後始末が重大だから、どうしてもお前、大蔵大臣を引き受けて一緒にやってくれ」と要請した。そのようにして蔵相に就任した高橋は、即日、金輸出再禁止を行った。

 就任2週間後の12月26日には、満州事件費を計上した昭和6年度追加予算案を提出し、年が明けると昭和7年度予算にも救農土木事業費などを盛り込んだ三次にわたる追加予算案を提出した。

 自らの編成となった昭和8年度予算案は、井上蔵相が編成した対前年度当初予算比51.4%増の22億3900万円余となり思い切った財政支出による「非常時代予算」と新聞に書きたてられた。そのような高橋の井上デフレ脱却策は、積極財政をその特徴とする高橋「財政」と認識されている。

 しかしながら、このような認識で見落とされているのが高橋の金融政策である。高橋の蔵相就任即日の金輸出再禁止によって進んだのが、大幅な円安であった。円レートは、ほんの2週間余り後の12月末には、それまでの1円=49ドルから34ドル台と3割もの円安となり、昭和7年に入っても円安の流れは止まらず、6月末には30ドル台、年末には19ドル台にまで低下した。6割もの円安となったのである。

 その状況で、高橋蔵相は、昭和8年(1933年)3月に円を当時不安定だったドルではなく、ポンドに1円=1シリング2ペンスで固定した。そのような為替政策と平行して高橋蔵相は、昭和7年(1932年)3月から強力な低金利政策を推し進め、昭和7年6月には、それまで33年間据え置かれていた日本銀行の通貨発行限度額を1億2000万円から10億円へと8倍以上に引き上げたのである。

高橋「金融」が日本にもたらした影響は
高橋「財政」よりもはるかに大きかった

 そのような円高是正策及び金融緩和政策、すなわち高橋「金融」が日本経済にもたらした影響は、高橋「財政」よりもはるかに大きなものだった。というのは、高橋「財政」を象徴する昭和8年度の「非常時代予算」の実態は、その実質的な規模が井上デフレで削減される5年前の昭和3年度予算とほぼ同じで、かつ追加予算後の前年度実行予算と比べれば実質マイナスというものだったからである。