終身雇用が揺らぎ
働く側の悩みも増えた

 スケジュール論信仰が変わらない一方で、採用の現場は大きく変わってきています。

 最大の変化は、「採用」=新卒採用、ではなくなったこと。

 一昔前であれば、ほとんどの大企業では「採用」といえば、「新卒採用」を指したものが、今では「新卒採用」を指すとは限らなくなりました。
「経験者採用」「中途採用」「キャリア採用」などといわれる採用が、伝統的な大企業であっても当たり前になってきたのです。

 それは、大企業が貫いてきた終身雇用という思想が揺らいできたことを意味し、学生にとっては、大学を出るときに“一生の選択”をする必要がなくなり、常に選択のチャンスが開けたことを意味します。

 この「選択ができる」というのは、実はシビアなことです。

 第二新卒市場が活性化していない時代には、少々の厳しさや、「仕事がちょっと合わないかな」という気持ちを感じつつも、目の前の仕事に邁進する以外の選択肢はなかなかとれません。辛いながらも取り組み続けているうちに、いつの間にかそれらを乗り越えて一人前になっていくというプロセスがあった。

 しかし、今ではそこに至る前に、外に次の世界を求めることが選択できるわけです。

 選択肢があるがために、目の前の仕事に対峙しきれないという一面も出てきます。選択肢が増えることは、新たな悩みが増えることでもあるのです。

 会社側の、採用業務も変わりました。

「採用」という仕事が、これから企業内で育て上げる優秀な新卒を確保するという“ハッピーな仕事”から、必要な人的リソースを、タイムリーかつ合理的コストで、質・量ともに確保していくという“シビアな仕事”に、間違いなく軸足を移しつつあります。

 スケジュール論で片づけようという新卒採用の風潮が80年以上も変わらない一方、その当事者である企業側と大学側は、大きく変容しているのです。

大学が「高校化」
している弊害

 企業側の変化は、日々の業務の中から私たちは直接的に感じているところです。しかし大学側の変化について、私たちは果たしてどれだけの実感を持てているでしょうか。

 私は1981年に大学生になりました。その時には何となく「社会の入口」に立ったという高揚感がありました。

 自由にアルバイトができる、稼いだお金は自由に使える、授業に出る・出ないも自由、一人暮らしをするのも自由。同じクラスには何浪もしている年上の仲間を含めて各地から集った不思議で多様な人物がいて、そういった人たちからも刺激を受けました。

 高校までとは明らかに違う世界に踏み込んだ、という感覚がありました。

 今では、このような感覚を持つ大学新入生は少ないかもしれません。今はどちらかといえば、大学は「社会への出口」で、企業が「社会の入口」になっている。

 この、大学が「社会の入口」から「社会への出口」になった変化の影響は、実は小さくはありません。大学から社会への移行の際のギャップが、大きく拡大しているのです。

 この変化の背景には、いうまでもなく大学進学率の高まりがあります。1980年には大学進学率は26.1%程度でしたが、2009年には50.2%。半数を超えました。就職協定の原型ができたという1953年には8%程度だったといいます(短大含めず・学部・男女合計。文部科学省「学校基本調査」)。

 これだけ大学進学率が変われば、当然、大学生の構成も変わります。過去の基準でいえば、十分な学力を持たない人も大学生になれるわけです。
その結果、大学がある程度「高校化」し、懇切丁寧な運営が日々行われるようになるのは道理です。