浅草の喧噪を逃れた別天地――。
江戸前天婦羅は、野菜を揚げないのが信条。
LAのチャイニーズシアターのように、芸能人の手形とサインが並ぶ、浅草公会堂。 その正面の路地を覗くと、石畳の小径の奥に、数寄屋造りの建物が厳かに建っています。
堂々たる一枚板の看板には、『羅婦天 清中』の文字が浮き彫りに。……ん? 羅婦天? いえいえ、ここは戦前からある老舗。文字は右から『天婦羅 中清』と読みます。
中に入ると、明るくゆったりとしたテーブル席が並んでおり、着物姿の女性が丁寧に出迎えてくださいます。車椅子でもそのまま席に着けるよう、バリアフリーに改装されたのだとか。左手に抜けると、建物に囲まれた中庭があり、池には体長80cmはあろうかと思われる巨大な錦鯉たちが悠然と佇んでいます。
まるで、ここだけ時が止まったような――。山深い温泉宿に来た風情があります。中庭に隣接する離れの座敷には雪見障子がはめられており、冬でもガラス越しに中庭の風景が楽しめます。
「オレンジ通りを通る度に気になってはいたのですが、分不相応な気がして……」と正直にお話しすると、六代目店主の中川敬規さんは、「建物が古いだけですよ」と柔和な笑顔を浮かべられました。確かに皆さんとてもフレンドリーで、格式張った気配は感じません。
駿河(現:静岡)の武士だった中川鐡蔵氏が身分を捨て、広小路通り(現:雷門通り)に屋台を出したのは幕末の頃。
江戸の屋台の天婦羅は、魚介類を串に刺し、オイルフォンデュのようにそのまま衣をつけて胡麻油で揚げ、串を握ってかぶりつく、というスタイルでした。
その後、今から145年前の明治3年にこの地に店を構えた時、息子の中川清五郎(後の二代目)の「中」と「清」を取って、店名を『中清』にしたそうです。
「鐡」と「清」の字は、以降交互に代々引き継がれて来たそうですが、四代目が58歳の若さで亡くなられたため、婦人が五代目を継ぎ、次男である現店主が六代目を継いだため、この不文律は壊れてしまったとか。
「大学を出て普通に就職するつもりだったのですが、親父に死なれて自分が継ぐしかないと腹を決め、3年他店で修行を積んでから、おふくろから引き継ぎました」。
とはいえ、中学生の頃からお店を手伝っていたため、戸惑いはなかったそうです。
「『好きなようにやりなさい』と先代にいわれ、『基本的なおもてなしは怠らぬよう』と教えられてきました」