400年の時を越えたトラウマ?
「大阪都構想」住民投票が否決

都構想の是非を問う住民投票を前に、熱い街頭演説を行う橋下市長。否決を受けて政界引退を表明しているPhoto:Yomiuri/Aflo

「大阪市」を廃止する――。人口267万人を擁する関西の中心都市を解体するという壮大な改革案、それが「大阪都構想」だった。

 橋下徹大阪市長が政治生命をかけて大阪市民に問うた改革は、長い戦いの末、5月17日に行われた都構想の是非を問う住民投票で、大阪市民に否定される結果となった。賛成派と反対派が史上稀に見るデッドヒートを繰り広げた住民投票の当日有権者数は約210万4000人と、過去に日本で行われた住民投票で最大規模だった。投票率は66.83%と、橋下市長が知事を辞職して出馬し、知事選とのダブル選となった2011年の市長選を上回る注目度の高さだ。今回の敗北を受け、大阪維新の会代表の橋下市長は、12月の任期まで市長を務め、政界を引退する意向を示している。

 今を遡ること400年前の慶長20年(1615年)4月~5月、大阪は戦の舞台となった。「大坂夏の陣」である。この戦いによって大坂城は陥落。徳川家が豊臣家を滅ぼして、日本の中心は西から東へと移された。400年の時を経て再び「大阪」が陥落する――。そんな歴史のトラウマを、都構想反対派の人たちは感じていたのかもしれない。

 しかし、大阪市をなくすとはいえ、都構想で言うところの「陥落」は、400年前とは意味が異なる。都構想は、大阪を「大阪府」に統一した上で「都」を再び東から取り戻すためのものであり、当時とは状況が逆である。むしろ、豊臣秀吉が成し遂げた天下統一の方が、橋下市長がやりたかったことに近かったのではないか。その構想が住民投票によって、すなわち大阪市民自身の手によって阻止されたことの意味は大きい。

 大阪都構想の失敗を機に、橋下市長が訴えた「大阪市廃止=大阪の一元化」が意図していたもの何だったのか。もしそれが実現すれば私たちの生活はどう変わっていたのかを、改めて考えてみたい。「今さら聞けないが、大阪都構想とは何だったのか、正直よく理解しないまま投票に赴いた」という人も多かったかもしれないからだ。ここで言う「私たち」には、大阪市民でない人々も含む。筆者自身、大阪市民ではない。

 筆者はマッキンゼーでコンサルタントとして働いた後、国会議員政策担当秘書として政治の世界へ飛び込んだ。与野党の国会議員事務所で2年半働いた後、兵庫県第10区(加古川市、高砂市、稲美町、播磨町)より衆議院議員選挙へ出馬し、5万1316票を獲得するも落選。一民間人の感覚で政治の現場や裏側を見た経験を活かし、大阪都構想をめぐる読者諸氏の素朴な疑問に答えるとともに、大阪維新の戦いを筆者なりに総括してみたい。