次第に、こんな思いを確信するに至った。

「市場原理が浸透し、大店法が緩和されたことで、店に客が来なくなり、息も絶え絶えの老夫婦」と捉えられるのは、その論理に大きな無理がある。なにゆえに、大店法緩和や廃止、さらには市場原理によるものと言えるのか――。

 この64歳の女性が抱え込む問題は、大店法云々とは別の次元で捉えるべきものなのだという記事を、筆者は憤りを込めて書いた。

 店主である主人は、2000年頃に亡くなった。筆者との電話で女性が「お父さん、亡くなったの……」と話していた声が、今も頭から消えない。この通りは2015年の今、営業中の店がわずか数店になっている。老夫婦が営んだ履物店のシャッターは、閉まったままだった。

「リベラル」「市民派」と自認する人やメディアにかかると、なぜかこういう老夫婦が「救済せねばならない弱者」という存在にされる。その深層心理には、脳梗塞で寝たきりのままの夫や、それを介護する女性という、老夫婦に対する怖いほどの蔑視の思想があるように思える。少なくとも、日頃からそのような偏見があるがゆえに、何かがあると顕在化するのではないだろうか。

いつ店を止めてもいい
ボケ防止に店を開いている

 視野を広くして捉えたい。この「商店街」から歩いて数分のところに、小さな通りがある。そこにもいくつかの店が並ぶ。その1つに、クリーニング店がある。筆者は2013年夏、このそばのビジネスホテルに泊まった。汗でワイシャツが汚れたため、クリーニング店に預けた。店主は、60代後半と思える老夫婦だった。特に妻は、店頭でのやりとりからして十分にはできていなかった。耳が遠く、軽い認知症気味に見えた。

 嫌な予感がしたが、仕方なく依頼し、翌日にうかがったところ、妻である女性がかたつむりのように、のっそりと店頭まで歩いてきた。腰が痛いのか、前かがみだった。なんとかやりとりを終えると、筆者のワイシャツを信じられないほどスローテンポで探す。見つけるのに10分もかかった。

「天井近くの棚に吊るしてあるから、椅子の上に乗り、取ってくれないか」と、筆者にせがむ。筆者は客であり、女性は店主の妻であり、店の店員である。店には、店主である夫がいない。誰もいないのだ。

 仕方なく、筆者はカウンター横の通路を越えた。なぜ椅子を運び、そこに足を載せ、シャツを取っているのか、解せない思いだった。