そして鶴見は、テレビとラジオ、男と女、思想と日常などを対比し、通常弱いと考えられているラジオや女や日常が逆に強いということを岡部が示して見せた、と指摘した。

 これは見事にしなやかな随筆家の岡部の特質を衝いているが、また、鶴見自身をも語っている。鶴見は独断的に一つの思想にこだわるのではなく、日常の暮らしの中に思想を発見しようとした人だった。その武器は驚きであり、疑いである。びっくりしながら、「どうしてだろうか」「何だろうか」と問いつづけて鶴見は生きてきた。

 鶴見は『民主主義とは何だろうか』(晶文社)所収の黒井千次との対談で、「見てますとね、幼稚園からかぞえて17、8年間、学校のやってることは坐りぐせをつけることですよ」と切り出して、黒井の不意をつく。

「坐りぐせ?」と黒井が問い直すと、鶴見は「いすに坐っていること、それを18年間やって条件づけられた坐りぐせのいい人間ができるわけ」と説き、「不穏分子」がそこで排除される、とやわらかく批判する。

「新しい反戦運動が起るのを待つ」

 鶴見の『隣人記』(晶文社)は「中川文男氏と御両親に」献げられている。

 通称六平の中川は、同志社大で鶴見の教え子だったが、大学1年の時、「有刺鉄線の向こうはアメリカ」という基地の町、岩国につくられた反戦喫茶「ほびっと」のマスターになる。

 そして、1972年6月4日に広島県警の依頼を受けた岩国署の警官23名に急襲され、家宅捜索を受けた。基地の米兵から赤軍派に銃が渡る中継地点として「ほびっと」が使われているという噂をたてられてだった。米軍の戦闘機が飛ぶのを邪魔しようとして凧あげをしたことなども刺激したのだろう。

 この家宅捜索が大々的に報じられて、中川の出身地である新潟でそれを見た両親は仰天する。息子はまじめに大学に通っていると思っていたからである。岩国に行って中川と会った両親は京都に立ち寄り、中川が傾倒していた鶴見に会いたいと言った。