お笑いコンビ“ピース”の又吉直樹が書いた小説『火花』(文藝春秋)がバカ売れしている。

 又吉とは、あるテレビ番組を収録するスタジオで一緒になり、不気味なほどに動かないし、しゃべらない若者だなと思った。相方の綾部が片時もじっとしていないのと、あまりに対照的だったからかもしれない。あるとき又吉は、免許証の写真を見た後輩から、「全然キモくないですよ」と言われたという。

 キモい、キモくないという話は何もしていなかったのに、こう言われたのである。

「やり場のない暗い感情を書きなぐるノート」

 確かに、又吉にはそんな感じさえある。

 しかし、お笑いはもちろん、ものを書くのにも、キモいと思われるほどの暗さは必要なのだろう。『火花』を読んで私は、又吉に感じていたディープさをさらに深めた。

 それは又吉のエッセイ集『第2図書係補佐』(幻冬舎よしもと文庫)の冒頭に、好きな本として『尾崎放哉全句集』(ちくま文庫)を挙げていたことにもよる。山頭火ではなく、放哉なのがいい。

 又吉はすでに十代の頃に「やり場のない暗い感情を書きなぐるノート」にこう書いている。

「人間の生活のリズムは喜怒哀楽など様々な感情の起伏によって出来ているが、僕の生活のリズムは溜息と舌打ちによってのみ出来ている」

 放哉のことはこの「一人一話」の第13回で書いた。そして今年の3月に「尾崎放哉生誕130年記念」の『佐高信が選ぶ尾崎放哉名句百選』(宝林堂)が出た。私がなぜ、又吉が放哉を挙げたことに感応したか、また、なぜ山頭火より放哉なのかを解析してみよう。

 放哉の百句を選ぶに当たって、私はまず定型時代の句は捨てた。やはり、自由律俳句こそ放哉の本領を発揮したものと思うからである。そうして選んでいって、結果的に妻と別れた後の句が多くなった。「咳をしても一人」という極北の寂寥は、語る相手すらない孤絶の生活を味わった者しか産み得ないだろう。

 人間には上昇志向と同じように下降志向がある。上昇志向だけのように見える人でも、突然変わって下降志向になる場合がある。

 下降志向は解放思考や逃亡思考とオーバーラップするが、上昇志向の出世主義の空気が充満すればするほど、それとは逆の下降志向もまた、色濃く浮かび上がってくる。