同社は、モータースポーツ分野でもサファリラリーやパリ・ダカールラリーでの優勝を通じて、三菱車の世界的なイメージアップを図った。1988年には念願の株式上場を果たすと共に、9月に米国工場での生産を開始した。

 筆者は、このクライスラーとの合弁米工場の開所式に訪米して取材したが、米国中西部にあるイリノイ州ブルーミントン工場は、トウモロコシ畑に囲まれた田舎にあった。当時、日米の合弁新鋭工場が稼働することは、現地の雇用問題や日米自動車摩擦問題の側面から、米国内で好意を持って受け止められた。

 開所式には、当時の舘豊夫、リー・アイアコッカ両社社長をはじめ、政財界の関係者や市民が多数参加し、盛大な催しが行なわれた。そこでは、三菱自動車が米戦略車として開発した「エクリプス」と、ダイムラーのOEM車「レーザー/タロン」の第一号車がラインオフされた。

 開所式の取材を終え、バスでシカゴまで長時間移動する中で、地元の名産のバーボンを飲みながら感慨にふけったことを思い出す。あれから27年、紆余曲折があったにせよ、あの工場が今秋にも生産・稼動を終えることになろうとは――。

ホンダを吸収合併するという
ニュースまで流れた絶頂期

 いずれにせよ、当時の三菱自動車ではトップが航空機技術畑の出身者から三菱商事出身の舘社長に代わり、提携先のクライスラーではフォードでマスタングを世に出したアイアコッカ氏が転進して強烈な個性を発揮しており、米国内でも人気が高かった。アイアコッカ率いるクライスラーは絶頂期だったし、三菱自動車も技術力に加えて企画力・営業力を積み上げていった時代である。

 三菱自動車は1991年、オランダ政府、スウェーデン・ボルボとの合弁生産「NedCar」(ネッドカー)を設立し、欧州生産にも進出。この頃、「FTO」で日本カーオブザイヤーを受賞し、GDIエンジンの開発で三菱車のイメージを高めた時期でもある。

「日産の背中が見えてきた」とは、トヨタ・日産の両大手を追う第三勢力の筆頭に三菱自動車が躍り出た当時、舘社長の後を受けた中村裕一・三菱自工社長が口にした言葉だ。

 三菱自動車、ホンダを吸収合併か――。こんな情報が流れたのも、この頃のことだ。三菱自動車が上昇機運に乗る一方、ホンダがヒット商品に恵まれない時期に、メインバンク筋から流れた情報だと言われることもあった。これに怒った当時の川本信彦・ホンダ社長が奮起して「オデッセイ」を大ヒットさせ、同社の起死回生に繋げたという見方もあるほどだ。