危機管理の甘さが噴出
一転、暗中模索の苦境へ

 振り返れば、三菱自動車の絶頂期はこの頃だった。ただ、軽自動車(乗用車・商用車)、小型車(乗用車・トラック)、中・大型車(乗用車・トラック)に加え、SUVのパジェロのバリエーションも拡大するなど、各商品分野が幅広くなっていただけに、「三菱自動車としては、照準が当てにくい」(当時の首脳)という声も、陣営内から上がっていた。

 結果的に、総合メーカーとして巨艦化し過ぎ、経営の目が個別部門に行き届かなくなったためか、内部で問題が顕在化していく。今で言う経営コンプライアンスに関する問題、危機管理の甘さが内在していくのだ。

 そのきっかけは、1996年に米国工場で起きた「セクハラ問題」。これは、当時日米自動車問題が続く中で、日本の代表企業「ミツビシ」がターゲットにされたとの見方もあった。しかしそれは、日本の本社も巻き込んだ度重なる不祥事の前兆のようなものだった。1997年、三菱自動車は総会屋への利益供与で社会に信を問われ、2000年にはリコール隠しが発覚して品質問題への対応の遅れから、経営責任が一気に表面化した。

 こうした騒動は、必然的に三菱自動車のイメージダウン、販売現場での売れ行きダウンに繋がり、同社の業績は低下。経営トップも短期間で交代する事態となった。さらに、資本提携先の米クライスラーも、GM、フォードと共に始まった米ビッグ3の凋落の中で、独ダイムラーと合併してしまった。

 三菱自動車としては、1999年にスウェーデン・ボルボと大型車分野で提携するなど、新たな道を模索した。しかし、2000年秋にリコール隠しが発覚して当時の河添社長が辞任するなかで、ダイムラー主導のダイムラー・クライスラー社をボルボに代わる新提携先に求めた。ここで独ダイムラー支援による三菱自動車再生への枠組みができ、ダイムラーから派遣された外人社長が就任することとなった。

 安堵も束の間、2003年、2004年にリコール隠し問題が再燃して、事態は川添元社長ら幹部クラスの逮捕にまで至る。同年、ダイムラークライスラーサイドが三菱自動車に対する経営追加支援の中止を発表。これによりダイムラーは、「三菱ふそうトラック・バス」だけを子会社化し、三菱自動車工業への出資を引き上げた。当時、京都への本社移転や岡崎工場の閉鎖などによる再建計画があったが、これが結果的に「白紙」に戻されて、三菱グループ主導での再建に乗り替わったのである。