松屋銀座ほど近く、シャネルのすぐ裏の通りを歩いて、「白いばら」の看板を目にした読者は多いかもしれません。「白いばら」に50年間勤務し、名店長といわれた著者が、お客様のための創意工夫をはじめて明かした『日本一サービスにうるさい街で、古すぎるキャバレーがなぜ愛され続けるのか』から、抜粋してお届します。

 2011年9月、私は黒服(男性のサービススタッフ)そして店長として、50年間勤めた東京・銀座の大型キャバレー『白いばら』を引退しました。

「キャバレー」と聞くと、今の若い人は同名のアメリカ映画や、藤原紀香さん主演のブロードウェイ・ミュージカルを思い浮かべるかもしれませんね。あるいは、「キャバクラやセクキャバみたいなお店でしょ?」、そんな風に思われている方も多いことでしょう。

 実際のキャバレーは広い店内にダンスフロアがあって踊れて、生バンドによる歌や踊りのショータイムがあって、席にホステスがついてお酒と会話が楽しめる──そんな“大人の社交場”です。

 一般的には、高級クラブやキャバクラとはダンスフロアのあるところが、ナイトクラブやダンスホールとはホステスがつくところが違います。

 キャバレーが日本中に広まったのは、昭和30年代から40年代中頃にかけてのことです。最盛期には全国に200軒以上のお店がありました。

 もともと日本では、戦前からダンスホールが賑わいを見せ(戦時中は禁止)、早くからダンス文化が根づいていました。キャバレーはそんなアメリカナイズされた文化を取り入れた娯楽場として、高度経済成長に支えられながら民衆の心をつかんでいったのです。

 全国各地に、白いばらよりずっと広いグランドキャバレーが軒を連ねていました。

 ショーの出演者には、テレビや大舞台で活躍しているような人がいたり、お客さまには、資産家や大企業の経営者、政治家、作家などもいたりして、政治・経済・文化の発信地としても重要な役割を果たしていました。

 けれども、その華やかさが仇となり、徐々に大型キャバレーは窮地に立たされるようになります。

 1973年の第一次オイルショックで高度経済成長は終わりを告げ、それから二年後の昭和五〇年代に入るとカラオケが本格的に普及し始めます。

 ダンスフロアやステージのあることが前提となっているキャバレーは、店の規模を縮小したりカラオケを置いたりするといった時代の流れに沿った変化ができずに、次々と姿を消していきました。

 さらにディスコやキャバクラなど新しい遊び場の台頭により、多くのキャバレーが閉店に追い込まれ、現在では、都内でもわずか数店を残すのみとなっています。

 そんな中で、私がお世話になってきた白いばらは、今も元気に営業しています。銀座に十数店舗あったキャバレーのうち、一軒だけ生き残っているお店です。これから数回にわけて、そんな白いばらのお話を書かせてください。