売春島や歌舞伎町のように「見て見ぬふり」をされる現実に踏み込む、社会学者の開沼博。そして、『「AV女優」の社会学』の著者として話題を呼ぶ社会学者の鈴木涼美。『漂白される社会』の出版を記念して、ニュースからはこぼれ落ちる、「漂白」される社会の現状をひも解くシリーズ対談。
女の子たちはなぜ、AV女優になることを選んだのか。そして、どのようにAV女優へと変わっていくのだろうか。そこには、メーカーとの面接という商業的な仕組みのなかで自らを語り続けることで、普通の女の子がAV女優に変貌を遂げる構造があった。対談は全3回。

自ら語ることで女の子はAV女優に変わっていく

開沼『「AV女優」の社会学』(青土社)はとても興味深く読みました。発売から1年ほど経過しましたが、どのような反応がありましたか?

鈴木 あの本は修士論文として書いたものが基になっています。現場に近いところにずぶずぶと入っていくところから、AV女優の日々の業務はどういうことかという細かいところまでを書いた本でした。だからこそ、現場の人からは「細部が違う」とか、いろいろと言われると思っていたんですけど、意外と好意的に受け止めてくれる人が多くいました。「これまでは言語化できなかったけど、夢中になってしまう構造はあるよね」と、AV女優やベテランの監督に言っていただいたのは嬉しかったです。

開沼 「知らぬ間に夢中になってしまう構造」はこの本の主要なテーマの一つですね。鈴木さんは「AV女優」という社会における特異な対象、いわば学問という、権威や高潔な知識・倫理性との結びつきが強いと見られがちな領域における「色物」を扱っています。しかし、そこに描かれていることは決して特殊な何かではない。むしろ、普遍的な社会現象・心理現象に迫ろうとしています。

 なぜ人は、不満を持ちつつもそこにのめり込んでいくのか。なぜ社会は、多くの人が眉をひそめタブーとするものを、タブーだとわかりながらも維持し続けてしまうのか。そこには、「夢中になる」ことと「夢中にさせられること」との間にある境界線が融解する瞬間が確実にあり、そこに迫ろうとしています。

 あらためてうかがいますが、鈴木さんが本書で書かれたのは、普遍的なことなのでしょうか。

鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年、東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒。2009年、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。専攻は社会学。著書に『「AV女優」の社会学』(青土社)がある。

鈴木 そうですね。AV女優に限らず実際になかに入ってしまうと、自分はこれくらいで、適当にうまくやろうと思っていたものが、割と本気になってやってしまうことがあります。ただ、私はそれを最初から現代社会に普遍的な搾取の構造として描きたかったというより、現場の女の子の気持ちの変化として単純におもしろいなと思っていました。その構造によって、女の子はどんどん魅力的になっていくし、一方では、心身ともに疲れてしまうこともある。

 なるべくなら、それを奨励する視点でも、批判する視点でもないところから、描きたかった。積極的に女の子を変えていくためのシステムではありませんが、AV業界の構造が偶然的に女の子に作用していく、そんな産業の構造がおもしろいので書きたかったという気持ちから書き始めました。

開沼 なるほど。「奨励する視点でも、批判する視点でもないところから、描きたかった」という点は、本書のオリジナリティを生み出すのに重要な役割を果たしてますよね。

 誰かを被害者・弱者として単純化して語る語り口というのは、共感を呼びやすい。つまり、「AV女優は被害者だ」ということを強調する物語、論旨はウケやすく広がりやすいですよね。私も『漂白される社会』(ダイヤモンド社)で社会的弱者が集まる場所を取材したり、被災地の問題などに関わるなかで、しばしば「弱者への配慮」の言葉に出合いますが、その弊害を感じることも多かったです。端的に言えば、見えない第三者を持ち出してきて「この人は被害者・弱者である」と指摘する行為が、それを主張する人が自ら権力を獲得することと表裏一体であるのに、それを多くの人が意識しないという問題です。

 つまり「誰かを被害者・弱者として単純化して語る」ことで、それを語る人間は、自らが正しい側にいると優位な側にたったかのように錯覚し、その周りは黙らざるを得なくなる。そこには、本来、単純な被害者・弱者と語るだけでは足りない複雑な第三者である「誰か」がいて、その「誰か」について語られるべきことを語れなくする構造が生まれます。その結果、全員「思考停止」になってしまうわけですね。思考停止になった結果、現場不在の議論が、あたかも現場を代弁する正しい議論であるかのように流通してしまう。これは、さまざまな被災地に起こっている問題、差別問題やケアの問題などの根底にたたずむ大きな問題です。

 その普遍的な「思考停止の構造」に「現場・当事者ベース」の言葉を集めながら風穴を開けようとしたことに、『「AV女優」の社会学』の価値の一つがあることは、誰も否定できないでしょう。「現場・当事者ベース」の反対には、ろくに手足を動かそうともせず、頭を少しひねった程度の小賢しい言葉遣いのなかでなされる「上から・外から・第三者ベース」の議論があります。「AV女優」について、ともすればそういう「上から・外から・第三者ベース」の「弱者への配慮の観点からシステム全体を否定して終了」といった不毛な言葉に回収されてしまうところを崩しにかかっています。

 一方で、興味本位に、手放しでそのシステムを「奨励する言葉」も当然出てきます。しかし、それもまた思考停止のそしりを免れないでしょう。極端に言えば、「AV女優はみんな自分の意志で満足しながら仕事をやっていて、業界はどこでも安全で居心地よく、引退後も安泰」なんていう、ポジティブすぎる見方です。そんなわけはないでしょう。もちろん、これは他のあらゆる仕事でも同様です。

 重要なのは、「現場の感覚」が、そのどちらとも違ったものだということです。AV女優は「ただの弱者」ではないし、「ただの呑気な利益享受者」でもない。答えは両者のないまぜになったところにあり、それを支えるシステムを正面から直視することが重要です。

 長くなってしまいましたが、そうした「推進/反対」の極端な二項対立にはまりがちな「AV女優」の見られ方を超えて、現場で何が起こっているのか丹念に記述しようとしたこと、そこには「知らぬ間に夢中になってしまう構造」を生み出すシステムがあると発見したことに、鈴木さんのお仕事の重要性があるということです。それを最初に明確にしておきましょう。

 鈴木さんは、何がそのシステムをつくり出したと思いますか。労務管理的な側面では、いわゆる普通の会社勤めとは異なりますよね。身体的な酷使とは違って、目に見えづらいけれども心身に大変な負担のかかる感情労働の側面もある。誰が、どのように「AV女優がAV女優であることに夢中になってしまうシステム」を発達させてきたものなのでしょうか。

鈴木 たまたまそういう形にすることが、いろいろな人に都合がよかったという側面があると思います。本のなかで、面接について結構なページを割いて書きました。AV女優になるための面接は、女の子のキャラクターづくりを先鋭化するためにできたものではなく、女の子が売れるかどうか判断するためにあるものです。

 AV女優になりたい女の子はいっぱいいるわけだから、面接をいっぱい回らせることになっています。プロダクションとしては一番いい条件のところに行かせたいので、気に入ってくれるメーカーが見つかるまで回るわけです。女の子を見極めたいメーカーの気持ちと、女の子を高く売りたいプロダクションの気持ちとがあるなかで、女の子が何回も面接を経験するというたまたまの状況が生まれていますね。

 それは単なる売り込みなんですけど、業務として繰り返されることで、その効能は女の子を判断するという次元を超えていきます。語るという行為によって、女の子が自分でAV女優になっていく、キャラクターをつくっていくという作用が偶然生まれたと私は思ったんです。

 最初からそのためにつくられた機会だったら、そんなにおもしろくないですよね。でも、普通に商売をしている人たちが、自分たちの商売のためにつくった構造が、たまたま女の子にそういう作用をもたらしている。女の子を成長させるために設けたわけではないものなのに、その構造に則っていると知らぬ間に女の子が成長していくというのは、おもしろいと思いました。