稲盛和夫が語った起業の「原点」とは――。京セラとKDDIという2つの世界的大企業を創業し、JAL再建の陣頭指揮を執った「経営の父」稲盛和夫氏。その経営哲学やマネジメント手法は世界中に信奉者を持つ。
今回、『稲盛和夫経営講演選集』(第1~3巻)発刊を記念し、1976年に起業時の経験を語った貴重な講演録を、全5回に分けて掲載する。最終回は、リーダーと経営者とはどのようにあるべきかを明確に語る。
リーダーの才がある人は
社会に尽くしてあたりまえ
私は鹿児島の田舎から出てきて、幸いにして事業で成功することができましたが、「アメリカの工場も含めた約4000名の従業員や、相当な数の株主のために、私が京セラの社長として存在する必然性は、はたしてあるのだろうか」と考えたことがあります。
『稲盛和夫オフィシャルサイト』
私は、稲盛和夫という人間が京セラの社長である必然性はない、と思っています。言葉が悪いかもしれませんが、世の中は、頭のいい人も悪い人も一定の確率で存在するから成り立つのであり、頭のいい人ばかりいても、頭の悪い人ばかりいても世の中は成り立たないでしょう。神さまがつくった一定の比率で、頭のいい人も悪い人も両方存在するのが社会だと思うのです。
京セラという会社を経営するのは、何も私でなくても、別の方であってもいいのです。つまり、神さまが経営の才能をもつ人間を無造作に決めたうちの一人が、偶然私だったというだけです。
その証拠に、私の両親は頭のいい事業家ではありません。逆に、立派な両親から立派な子どもが育つわけでもありません。世の中にそうした人々が一定の数だけ存在するように神さまがつくっただけであり、それが私自身である必要はないのです。私に代わるべき人であれば誰でもよく、何も私個人が社長である必然性というものはないと思っています。
そのように考えた後、「私は今後どのようにあるべきか」ということを考えました。そして、私は偶然にも会社を経営する才能に恵まれ、京セラの社長になりましたが、その才能を私のために利用してはならない、と思うようになりました。
世の中が成り立つためには、集団のリーダーになるべき人が必要であり、その一人が偶然にも私だったのです。ですから、「大きな会社の社長を務めている私は偉い人間であり、お金持ちであって当たり前だ」などという傲慢な思いを抱くようになってはならないと思います。
本来であれば私である必要などなかったのですが、神さまが私に対して「集団のリーダーになれ」と命じたのであれば、その才能を社会のために使わなければいけません。従業員や株主など、私を取り巻く方々に対して自分の才能を使うことこそが必要なのです。自分の才能を自分だけのものだと錯覚して、自分だけのために使ってはならないと思います。
世の中の一部の人がリーダーである必然性があるとするなら、それは神さまがリーダーの存在を必要だと認めて才能を与えたのです。だから、社会に向けてその才能を使うべきであって、個人的な欲望のために使ってはならないと思うのです。