稲盛和夫が語った起業の「原点」とは――。京セラとKDDIという2つの世界的大企業を創業し、JAL再建の陣頭指揮を執った「経営の父」稲盛和夫氏。その経営哲学やマネジメント手法は世界中に信奉者を持つ。
今回、『稲盛和夫経営講演選集』(第1~3巻)発刊を記念し、1976年に起業時の経験を語った貴重な講演録を、全5回に分けて掲載する。第4回は稲盛経営の根幹とも言える「哲学」が実践されたエピソードを紹介する。

日本人もアメリカ人も動かす
「判断基準」とは?

 その後、アメリカの社員が言うような方法を採用してみたり、それではいけないと思って日本の方法を採用してみたりと試行錯誤を繰り返し、結局は鹿児島の田舎で両親に教わった、「人間とはどのようにあるべきか」という、日本の京セラの経営と同じ考え方を、アメリカでも貫くことにしました。

1971年、サンディエゴのゲストハウス開設パーティ(右から2番目が稲盛和夫氏)

 人種が違えば言葉も違い、文化的なバックグラウンドも違うといえども、彼らも同じ人間です。ですから、「人間として何が正しいのか」ということを貫く経営を行えばいい、ということに気がついたのです。

 「日本ではそれで成功したのだから、アメリカでも成功するはずだ」と信じ、その後はアメリカの幹部社員たちがアメリカの方法を主張しても、頑としてそれを受け入れず、「アメリカの方法や日本の方法というものはないのだ。経営の方法とは、どの国であろうともただ1つしかない。私の言うことにしたがってくれ」と言って、自分の信じた経営を行っていきました。

 私が工場の現場へ出て、女子工員に交じって手伝いをしようとしていると、工場長が来て、「社長室があるのだから、そこにいてもらわないと困ります。作業着を着て工場へ出てきて、女子工員と一緒に働いていたのでは、社長の値打ちがなくなります。アメリカでは、そのような権威のない人を誰も尊敬しません。社長室に帰ってください」と言われたことがありました。

 しかし私は、「それでも構わない。そんなことで権威が落ちるなら、落ちても結構だ」と言って、女子工員と一緒に仕事をしていました。

 また、昼食は工場の食堂でとるのですが、メニューの中にピザがありました。非常に安く、5ドルぐらいで5人は食べられるので、3つか4つ注文して、一緒に仕事をしていた女子工員に食べてもらっていました。

 そのうち女子工員たちは、私と一緒にご飯を食べることが楽しくなってきたらしく、誰が言うともなく、誰が私の横に座るのかが話題に上るようになっていきました。また、「社長はアメリカにいる間、いつも一人でかわいそうだから、お弁当をもってきてあげます」と言って、女子工員がお弁当をつくって会社にもってきてくれました。今でも私が工場に行くと、そのようなことをしてくれますし、うちの幹部にも同じようなことをしてくれています。

 これを見たアメリカの幹部社員たちは、「こんな光景は、いまだかつて見たことがない。なぜこんな人間関係が築けるのか」と驚いていました。